対象となる客観世界の探求は自然科学等の範囲であって、この方面における研究は驚くべき長足の進歩をきたしている。
しかし一方の主観世界たる生命の探求はいっこうにすすんでいない。
驚くべき事実は、三千年の昔に釈尊はすでに生命の本質、生命の実体を残りなく説き示しており、しかも七百年以前に日蓮大聖人は実践の方式を打ち立てられているのである。
初めに信仰したときには、初信の功徳といって、思いがけない大利益を得ている。、ところが、一年でも、三年でも、強盛に信仰をつづけていけば、壁につきあたったような感じで、どうも身動きのとれなくなることがある。幸福になるために信仰したはずなのに。どうして、こんなに罰ばかりだろうといって、かえって仏を怨むこともある。
ところでこれは、わたくしたちが久遠の昔からなんどもなんども生まれてきて、謗法をしたり、悪いことをした業報が八種類もあって、この業報を、つぎつぎと生まれてきては一つずつ消してゆくはずのところを、強く信仰することによって、この世でぜんぶ消してしまって、最後には、仏の境涯というすばらしい幸福を、この世でつかむのである。
わたくしたちは、莫大な罪をおかしてきているが、現世にその報いを軽く受けるのは、護法の功徳力によるのであってみれば、かえって、大罪を小罪で消されることを喜ばなければならない。これを転重軽受法門とも申されたのである。
初信の功徳は、山へ登ることであり、成仏は、それよりも高い山へ登のであって、これは世法のご利益を得るのではない。
低い山から最高の山へ登る中間には、かならず谷があり、この谷に、みなさんは迷う。これこそ鬼子母神、十羅刹、魔王の試練で、初信の者は、これに驚き負けてしまう。この第六天の魔王の試練の罰に負けてはならない。谷へ落ちたとき、これでなるものかと、最高の山へ登るためにいちど谷へ落ちたことを信じ。よくよく小山より大山へ登る谷へ、考えをいたさなければならない。
これこそ、三障四魔が紛然として競い起こったのであり、初信の功徳に酔うべきではなく、谷間への信心であることを深く考えて、毎日の信心を怠ってはならない。