信心とは「仏」と「魔」との間断なき戦い。
故に「すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」とあるように、「ここまできたからもういいだろう」という心が生じた瞬間に魔はつけ込んできます。
仏法は勝つか負けるかの連続闘争であり、より高い自身をめざしゆく精神闘争です。
私たちの「成長しよう!」「努力していこう!」という日々の真剣な歩みの積み重ねのなかにこそ、本院妙の生き方があり、信心の鍛えと深化があるのです。
懸命に、わが友に仏法の話しを語り抜いていくならば、歓喜がみなぎり、自身の境涯が開かれてゆく。その時に、地涌くの菩薩の大生命が、わが胸中に脈打っていく。
この弘教のなかにこそ、自らの人間革命があり、自身の、更に社会の宿命を転換し。永遠の幸福と平和を築くゆく直道がある。
「諸天善神等・男女と顕れて法華経の行者を供養す可し」
諸天善神が人間の男性の姿、女性の姿をとって顕われ、法華経の行者を供養するであろう。
自分が妙法のために行動すれば、諸天善神は男性となり、女性となって、さまざまな面で守ってくれる。
諸天善神は、ある場合には我々を助ける自然の作用をさすこともある。
しかしそれだけではない。大聖人は「男女と顕われ」と仰せである。現実の人間のことである。
千人の会員に尽くせば、千人の諸天善神に守られる。一万人同志を守れば、一万人の諸天善神に守られる。
反対に、会員を自分のために利用すれば、生々世々、諸天から見捨てられる。
「利用する」のか。「尽くす」のか。この一点の差なのである。