「八歳の子どもが十貫(37.5キログラム)の荷を持って八里(約32キロメートル)の山道を歩くとすると、その子どもは、どんなに苦しいことでしょうか。
しかし、力士が同様にして山を越すとすれば、秋の景色を眺めながら、悠々と越すにちがいありません。
今、世の中を見ると、家族八人もの荷、商売不振の荷、重病などの荷を負って、よたよた歩いている人と、悠々と人生を歩いている人とがあります。そして私が思うに、どうもよたよた組が多い」
「それで、世の中を苦しみの場と思いこんでいます。これは大変な間違いです。なんのために生まれてきたのか・・・法華経に『衆生所遊楽』とあるように、この世に遊びに来たのです。
真の信心の頂点は、生きていることそれ自体が、楽しいというのでなければなりません。世間並みな相対的幸福は低いもので、これが絶対的幸福となると、たとえ借金取りが来ても、嬉しくてたまらぬといった生活です。女房と話をしていても、朝起きても、ご飯を食べても楽しいという人生が、御本尊を信じきった時に実現するんです。
苦のみ味わっていては、生きている甲斐はないだろう。それでは、しょっぱい鮭のようなものです。
では、世の中を幸福に楽しめるには、どうすればよいのか。
人生を楽しむには、金も体力もあった方がよい。しかし、根本には生命力がなくてはならない。これは理屈や、踏ん張りでは出てきません。この御本尊を勇んで拝まなければ絶対駄目です。これが、しみじみとわかればいいんです。
譬えるのは、まことにもったいないことですが、御本尊は幸福になる機械です。その使用法は、朝、夜の勤行と、折伏の実践です。
金をつくり、健康をつくり、人生を心ゆくまで楽しんで死のうではありませんか」