信心は、即生活である。仏法は、即社会である。ゆえに、生活に勝ち、社会に勝ち、自分自身が幸福にならない信心や仏法は、あり得ないのだ。
皆、悩みがある。悲しみがある。苦しみがある。しかし、「煩悩」は即「菩提」である。大きく悩んだ分だけ、大きく境涯が広がる。これが、妙法の原理だ。たとえ地獄の業火のような逆境に立たされたとしても、そこを必ず幸福の寂光土へと転換できるのだ。 苦悩が何もないことが幸せなのではない。負けないこと、耐えられることが、幸せである。重圧を受け「あの人は大変だ」と周りから言われても、平然と、また悠然と、使命のわが道を歩み抜くことだ。そこにこそ「能忍」という、強い強い仏の生命の力がわいてくるのだ。一番、苦労した人が、最後は一番、幸福を勝ち取れる。幸福は、忍耐という大地に咲く花であることを忘れまい。
何があっても、負けない。その人は勝っているのだ。なかんずく、自らが青春時代に誓い定めた信念のために負けない一生を貫き通す人は、最も強く偉大である。
人を幸福にできる人こそが、真実の幸福者である。
自分自身が、皆を照らす太陽となっていくところに、本当の勝利があり、独立自尊の幸福の旗が翻るのだ。
行動のない人生に、勝利の旗はない。行動のない信心に、幸福の旗はないのだ。この尊い意義深き青春を、そして人生を、負けずに、すべての苦難を乗り越えながら、旭日輝く勝利の栄光を胸に、わが道を歩みきっていくことだ。
これが、本当の人間としての歩み方なのである。これが、仏法である。これが、信心である。「難来るを以て安楽」(御書750ページ)との、大聖人の重みのある一言を、決して忘れてはならない。