御書解説

〈教学〉 7月度座談会拝読御書 種種御振舞御書 2018年7月3日 御書全集 911ページ1行目~3行目 編年体御書948ページ1行目~3行目 人々を救う、尊い誉れの人生 師匠に続き弟子が二陣三陣と広布へ

御書全集 911ページ1行目~3行目
編年体御書948ページ1行目~3行目
人々を救う、尊い誉れの人生
師匠に続き弟子が二陣三陣と広布へ
本抄について

 本抄は、建治2年(1276年)、日蓮大聖人が身延で認められ、光日房に与えられたとされていますが、詳細は不明です。
 文永5年(1268年)から身延入山に至る、大聖人御自身の大難との闘争をはじめとする振る舞いについて、つづられています。
 大聖人は御自身の足跡を振り返られて、「法華経の行者」としての不惜身命の闘争を門下に教えられています。
 本抄は、まず、文永5年に蒙古から国書がもたらされた時の模様を回想されます。
 蒙古からの国書の到来は、「立正安国論」で予言された二難のうち、「他国侵逼難」(他国からの侵略)が現実味を帯びてきたことを意味しています。
 大聖人は、他国侵逼難が現実のものとなるのを食い止めるべく、十一通の書状で、幕府の要人や諸宗の高僧を諫められました。
 ところが、時の権力者は、諸宗の悪僧と結託し、かえって大聖人ならびに門下を弾圧、迫害しようとしたのです。
 拝読御文は、こうした中にあって一歩も引くことなく、大聖人直系の弟子の誇りに燃えて広布の実践を貫くよう教えられた箇所です。

拝読御文

 わたうども二陣三陣つづきて迦葉・阿難にも勝ぐれ天台・伝教にもこへよかし、わづかの小島のぬしらがをどさんを・をぢては閻魔王のせめをばいかんがすべき、仏の御使と・なのりながら・をくせんは無下の人人なりと申しふくめぬ

妙法蓮華経の五字

 日蓮大聖人が生涯にわたって弘め続けられたのは、成仏の根本法である南無妙法蓮華経です。
 大聖人は拝読御文の直前で、御自身が末法における一閻浮提(世界)広宣流布に先駆したと述べられ、弘通する法そのものについて、「法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字」(御書910ページ)と示されています。
 法華経には、宇宙と生命を貫く根源の法は指し示されているものの、それが具体的に何か、また、その名称は何か、明らかにはされていません。
 大聖人は、法華経に指し示されている、この根源の法こそ南無妙法蓮華経であると明かされたのです。
 南無妙法蓮華経は、経典の名前である「妙法蓮華経」に単に「南無」が冠されたのではなく、根源の法そのものの名称にほかなりません。
 大聖人によって南無妙法蓮華経が弘め始められたことで、末法のあらゆる人々が苦悩から救われ、揺るぎない幸福を築きゆく道が現実に開かれました。
 法華経には、万人の成仏を願う仏の心が示されています。この仏の心を実現する根本法が、大聖人お一人から唱え始められた南無妙法蓮華経なのです。

不惜身命

 日蓮大聖人は拝読御文で、難に直面しても臆することなく広布に進んでいくよう、不惜身命の信心を教えられています。
 「不惜身命」は、法華経勧持品第13の文であり、「身命を惜しまず」と読みます。
 勧持品では菩薩たちが、釈尊の滅後に正法を求め、弘めていくことを次のように誓います。
 「世尊よ、どうか心配なさらないでください。仏が入滅された後、私たちが必ずこの法華経を持ち、説いていきますから。(中略)私たちは勇敢に耐え忍び、身命を惜しまず、法華経を語り抜いていきます」(法華経411ページ、趣旨)
 難に遭っても身命を惜しまず、正法を求め弘通する峻厳な精神――これが、不惜身命です。
 大聖人は、「日蓮生れし時より・いまに一日片時も・こころやすき事はなし、此の法華経の題目を弘めんと思うばかりなり」(御書1558ページ)と仰せの通り、身命に及ぶ大難にも屈することなく、妙法流布の振る舞いを貫かれました。
 また、門下に対しても、本抄で「各各思い切り給へ」(同910ページ)と呼び掛けられるなど、“惜しむ心”なく懸命に信心に励んでいくことを教えておられます。
 ただし不惜身命といっても、わが身、わが命を粗末にすることではありません。
 池田先生は述べています。
 「私たちにとって『不惜身命』とは、恐れなく南無妙法蓮華経を唱え抜くことであり、世界のため、未来のため、人々のために、懸命に信心の実証を示しきっていくことに尽きるのです」

仏の使い

 折伏・弘教をはじめ、友の幸せを願って仏法を語る実践は、全て「化他行」です。化他行は「自行化他」の「化他」に当たり、他人に功徳を受けさせるために仏法を教えることをいいます。
 法華経法師品第10に「若し是の善男子・善女人、我(=釈尊)滅度して後、能く竊かに一人の為にも、法華経の乃至一句を説かば、当に知るべし、是の人は則ち如来の使にして、如来に遣わされて、如来の事を行ず」(法華経357ページ)とあります。
 法華経の一句をも語ることは、仏の使い(如来の使)として、仏の振る舞い(如来の事)を実践する最も尊い行為であるゆえに、その功徳は計り知れません。仏の使いとは、仏から遣わされた人のことです。
 御書に「法華経を耳にふれぬれば是を種として必ず仏になるなり」(御書552ページ)とある通り、相手に妙法を聞かせることは、その人の成仏の道を開くことにほかなりません。
 「法華経を一字一句も唱え又人にも語り申さんものは教主釈尊の御使なり」(同1121ページ)、「僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は如来の使と見えたり」(同1448ページ)等、日蓮大聖人は御書の随所で妙法流布に励む人をたたえられています。

池田先生の指針から 何ものも恐れぬ師子の心で

 大聖人は、大聖人門下の「無上の誉れ」を高らかに宣言されています。
 すなわち――仏の滅後、いまだ誰も弘めたことのない「法華経の肝心」「諸仏の眼目」である南無妙法蓮華経の大法を、全世界に弘めゆく先陣を日蓮が切ったのだと。
 末法の闇夜に、元初の太陽が昇ったのです。その大光に、世界の全ての人々が包まれていくのです。
 大聖人門下の私たちは、迦葉・阿難、天台・伝教ら大学者たちの後ろに「ついていく」のではない、彼らを凌駕し「超えていく」存在だと仰せです。何と誉れ高き一人一人でしょうか!
 戸田先生は講義の中で「実際、いま大聖人のお示しのとおりにやっているのは創価学会だけです」と強調されました。
 「羊千匹よりも獅子一匹」――牧口先生は叫ばれました。「臆病な小善人が千人いるよりも、勇気ある大善人が一人いれば、大事を成就することができる」と。
 「わづかの小島のぬしら」の権力の脅しにも臆してはならない、と大聖人は仰せです。
 私たちは師子です。学会は師子の陣列で、厳然と進みましょう。(2012年4月号「大白蓮華」、「勝利の経典『御書』に学ぶ」)
 ◇ ◆ ◇ 
 大聖人は、「法華経の肝心・諸仏の眼目」たる南無妙法蓮華経を、ただ御一人、末法万年尽未来際の民衆を救いゆくために弘め出されました。
 妙法を一閻浮提に広宣流布する瑞相に「日蓮さきがけしたり」。御本仏の大確信が脈打っておられます。
 本抄で「二陣三陣」と仰せられたのは、大難に立ち向かって、広宣流布の戦いが繰り広げられている真っ只中でした。
 あらゆる難を「本より存知」として受けとめられて、「各各思い切り給へ」と御指導され、「わが門下よ、二陣三陣、続け」と厳命なされているのです。
 師匠は、常に「先覚の道」を不惜身命の決意で、さきがけておられる。ならば弟子もまた、その道に恐れなく続いてこそ弟子である。師が開かれた道に続くことは、弟子もまた先覚の誉れの道を歩ませていただくということにほかならない。
 偉大な師匠を持つ人生ほど、誇り高い栄光はないのです。(『御書と師弟』第2巻)

参考文献

 ○…2012年4月号「大白蓮華」、「勝利の経典『御書』に学ぶ」(聖教新聞社)
 ○…『御書と師弟』第2巻、「末法流布の大陣列」(同)

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