御書解説

〈教学〉 4月度座談会拝読御書 如説修行抄 2018年4月3日

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〈教学〉 4月度座談会拝読御書 如説修行抄 2018年4月3日

御書全集 503ページ16行目~18行目
編年体御書 556ページ16行目~18行目
自他共の幸福願い正法を語り抜く
「法華経の行者」として仏法の正しい実践を
本抄について

 「如説修行抄」は、日蓮大聖人が文永10年(1273年)5月、佐渡・一谷で認められたお手紙です。
題号の「如説修行」とは、「仏の説の如く修行する」との意味です。「仏の説」とは、「釈尊の説」という意味であり、大聖人門下の立場からは「末法の御本仏である大聖人の説」と拝します。
当時、大聖人は流罪の身であり、門下にも数々の迫害が襲いかかりました。門下の中には師匠である大聖人を疑い、退転の心を抱く者もいたのです。
大聖人は本抄で、法華経の経文に説かれる通りの大難に遭いながら折伏を実践する大聖人とその門下こそが、末法における真実の如説修行の人であると示されています。そして、いかなる難に遭おうと退転せず、信心を貫き通すよう励まされています。
本抄の末尾に「人々御中へ」「此の書御身を離さず常に御覧有る可く候」(御書505ページ)とあります。門下一同に対して、大聖人が法華経を如説修行された通りに、信心に励んでいくことを教えられているのが本抄です。

拝読御文

 天台云く「法華折伏・破権門理」とまことに故あるかな、然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば冬種子を下して春菓を求る者にあらずや、雞の暁に鳴くは用なり宵に鳴くは物怪なり

「如説修行」

 本抄では、「如説修行」について「法華経の経文の規範を明確な手本として、少しも違えることなく、『ただ成仏の教えだけがある』と信じるのが、如説修行の人であると、仏は定めておられる」(御書503ページ、通解)と示されます。
釈尊は、人々の機根(=仏法理解の能力)に合わせて、種々の教えを説きました。その真意は、人々の機根を整えた後に「一仏乗」を教えることにあります。「一仏乗」とは、“人々を仏の境涯に至らしめる唯一の乗り物”との意味です。この一仏乗を説き切ったのは法華経のみです。
法華経以外の教えは“仮の教え”である「権教」と呼ばれます。これは、法華経に示される真実の教えへと人々を近づける“手立ての教え”にすぎません。法華経こそ、万人成仏という仏の真意が示された根本の教えであると知らなくてはならないのです。
さらに本抄では、「如説修行の行者」には、「三類の強敵」が競い起こることが述べられます。三類の強敵とは、3種類の強力な迫害者のことです。
この三類の強敵の出現こそ、法華経を正しく実践している“証し”にほかなりません。法華経には、悪世に妙法を弘める人には三類の強敵が競い起こることが予言されているからです。
そして、大聖人は他の御抄で「法華経の行者は如説修行せば必ず一生の中に一人も残らず成仏す可し」(同416ページ)と断言されています。大聖人の仰せの通りに信心の実践を貫く中に、何ものにも左右されない幸福境涯の確立があることを心に刻みましょう。

摂受と折伏

 仏法を弘めていくうえで、その方法に摂受と折伏があります。
たとえ人々が低い教えを信じていたとしても、そのことをとがめず、仮に受け入れたうえで次第に導いていく方法が摂受。
そして、相手が執着している低い教えの誤りを明確に指摘して打ち破り、正法に帰伏させていく方法が折伏です。
摂受、折伏について、日蓮大聖人は“時に応じた修行のあり方”として位置付けられています。ここでいう修行としての摂受とは、邪法・邪師を責めず、一人静かな所で修行に専念する修行のあり方をいいます。一方、折伏は、仏法に無理解な人々の多い世の中にあえて飛び込み、“仏法を破壊する邪師”の誤りを指摘し、正法を護っていく修行をいいます。
悪世においては折伏行によってのみ、自らが正法への確信を深めて成仏の道を歩むことができると同時に、人々を正法に目覚めさせることができるのです。
日蓮大聖人は「仏法は摂受・折伏時によるべし」(御書957ページ)と仰せになり、「時」を強調されています。
また、拝読御文の直前では「今の時は権教即実教の敵と成るなり、一乗流布の時は権教有って敵と成りて・まぎらはしくば実教より之を責む可し、是を摂折二門の中には法華経の折伏と申すなり」(同503ページ)と仰せです。
末法には、低い教えに執着して成仏の法である法華経を誹謗する邪師が多く出現します。こうした時にあっては、折伏こそが正法を護る正しい実践となり、時にかなった成仏の修行になります。
ゆえに、末法である現代において、大聖人が教えられた通り、南無妙法蓮華経こそが成仏の法であると、その正しさ、偉大さを言い切っていくことが、折伏の実践なのです。

慈悲の精神が根本

 折伏行の根本精神は、慈悲の一念でなくてはなりません。
慈悲の「悲」とは、衆生の苦を悲しみ、同苦すること。「慈」は、衆生を慈しみ、法を正しく教えて、境涯変革させていくことです。慈悲は「抜苦与楽」を意味します。
日蓮大聖人は他の御抄で、御自身が折伏を行じ、諸宗を厳しく破折している意味について、涅槃経の文を解釈した次の言葉を引いて教えられています。
「仏法を破壊し乱す者は仏法者の中にいる敵である。慈悲もなく、偽って親しくする者は、その人にとって敵である。すすんで悪を糾す者は護法の声聞であり、真のわが(=仏の)弟子である。人のために悪を取り除く者は、まさにその人にとって親である。すすんで悪を厳しく責める者こそ、わが弟子である。悪を追い出そうとしない者は仏法者の中にいる敵である」(御書236ページ等、通解)
一切衆生を仏にしようとの法華経の深い心を踏みにじって、仏法を破壊し混乱させていた当時の諸宗。万人成仏の道を閉ざす、こうした教えを徹して責めるのが、仏法者としての責務であり、真の慈悲の行為です。
大聖人の実践された折伏行は、邪法に惑わされている人々を目覚めさせ救っていこうとの大慈悲に基づく振る舞いにほかなりません。

池田先生の指針から 社会の基盤に確かな哲学を

 大聖人は、天台大師の「法華折伏・破権門理」の文を再び引用されています。
仏自らが、衆生を成仏させるために法華経を説いて、権門の理を鋭く破折されていった。この慈悲と道理の戦いが、法華の折伏にほかなりません。
加えて、諸宗を破折し、妙法を弘通すれば、三障四魔が競い、三類の強敵が立ちはだかることは、経典に照らして明白です。
しかし、眼前に立ちはだかる民衆の不幸を黙って見過ごすわけにはいかない。何より、仏の正法が失われてしまうことを放っておくわけにはいかない。こうした、やむにやまれぬ熱誠で立ち上がられた不惜身命・身軽法重による民衆救済の大闘争こそが、大聖人の「折伏精神」の本義なのです。万人成仏という、仏法本来の寛容の精神に満ちあふれた実践こそが「法華経の折伏」なのです。(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第5巻)
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末法は、魔性により権教と実教が入り乱れるということは先ほど述べました。加えて重大な問題として、本来、法華経を信仰の規範とすべき天台宗の者たちが、悪を放置して折伏もせず、現実を離れた山林で摂受の修行に耽っていたのです。
戦うべき時に戦わない。悪が跋扈しても傍観する。それは悪を助長していることと同じです。結果的に、仏法破壊に加担してしまっているからです。
仏の説いた法の厳格さが薄れ、曖昧になると、実践する人々の精神も腐敗・堕落していきます。
修行が懶惰懈怠になれば、魂が脆弱になり保身に走ります。そうなれば権力側にすり寄って宗教の権威化が始まる。この権威主義の悪弊が「摂受主義」の本質です。
当時の仏教界の大半がそうであったといっても過言ではありません。社会の基底部たる宗教が混迷している時代だからこそ、精神の土壌を変革する折伏行の実践こそが、仏の真意を実現する如説修行となるのです。
今の日顕宗も、大聖人を迫害した当時の諸宗とまったく同じです。(同)

参考文献

 ○…『勝利の経典「御書」に学ぶ』第5巻(聖教新聞社)