法悟空 内田健一郎 画(6408)
全国、全世界の同志が、創価ルネサンスの闘士として、勇んで立ち上がった。
「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながる(流布)べし」(御書三二九ページ)との御聖訓を胸に、世界広宣流布への新たな長征が始まったのだ。
同志は、「学会によって知った、この正しき信心の軌道を踏み外すまい」「どこまでも学会と共に進み、断じて幸福な人生を切り開いていこう」「悪縁に紛動されて、悔いを三世に残すような友を出すまい」と誓い合った。異体同心のスクラムを固めながら、さっそうと、朗らかに、二十一世紀を、「生命の世紀」をめざしたのである。
宗門が破門通告なる文書を送付してから約一カ月後の十二月二十七日、学会は、日顕に対し、「退座要求書」と、それに賛同する世界各国を含め、千六百万人を超える人びとの署名簿を送った。この厳たる事実は、永久に広布史に刻まれることになったのである。
学会では、この年の師走、東京の江戸川・葛飾・足立区をはじめ、神奈川の川崎などの文化音楽祭が開催された。また、富士鼓笛隊、富士学生軽音楽団、富士学生合唱団などが、盛んに演奏会を行った。そのなかには、あの「歓喜の歌」に歌詞をつけた、「創価歓喜の凱歌」を誇らかに披露した催しもあった。
山本伸一は、可能な限り、出席し、鑑賞するとともに、メンバーを励ました。
同志の晴れやかな歌声は、明一九九二年(平成四年)「創価ルネサンスの年」の開幕を告げる、希望のファンファーレとなった。
九一年(同三年)は、まさに激動の一年であったが、学会の「魂の独立」の年となり、新生・創価学会の誕生の年となった。そして世界宗教への飛翔の年となったのである。
今、人類の平和と幸福を創造しゆく大創価城は、厳としてそそり立ったのだ。世界広宣流布の時代を迎え、「悪鬼入其身」と化した宗門は、魔性の正体を現し、自ら学会から離れていった。不思議なる時の到来であった。すべては御仏意であった。