聖教新聞ななめ読み

広布に生きった人は、臨終の際、我が生命の諸天善神等の力用が、一挙に全面的に発動する。 そして断末魔の苦しみをはじめ、襲いかかる「死苦」から、完璧に守りきってくれる。

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広布に生きった人は、臨終の際、我が生命の諸天善神等の力用が、一挙に全面的に発動する。
そして断末魔の苦しみをはじめ、襲いかかる「死苦」から、完璧に守りきってくれる。
そして内なる一念の力用はその瞬間、外なる大宇宙の諸天善神の発動をも呼び起こす。そして内外相応して自在の力を発揮し、直ちに「寂光の宝刹」すなわち宇宙の仏界という次元へと、必ず融合していける。
この意味から、臨終の際の諸天善神の動きとは、信心によって蓄えられた我が生命の「証」ともいえる。
つまり、「死」は一面からみれば、人間が今世における一切の虚飾をはぎとられて、裸のままの「生命」それ自体が持つ真実の「力」で立ち向かわざるを得ない難関である。
この時ばかりは、権力という「力」も、財力の「力」も、名声や地位という「力」も、また単なる知識の量や、理性のみの「力」も、すべて死苦を乗り越える真の力とはならない。
生命自体の実力とでもいおうか、いわば、生命奥底の底力こそが試される瞬間なのである。ニセものは通用しない。
「生」の期間には必ずしも表面化しない、生命内奥の真実の姿が、その時、立ち現れる。臨終という、この文字通りの正念場にあって、ただ妙法の実践の中で我が「生命」自体に積み、蓄えてきた生命力というエネルギーのみが、その絶大の力を発揮する。
ゆえに、「生」あるうちに、また健康で活躍できるうちに、真剣に妙法による福徳の貯金を、また生命力の蓄えをつくっておくことが重要なのである。
…地獄とは、最低のものに縛られた苦しみの境涯といってよい。しかし、妙法に生き切った人は、臨終の際、その生命の力を最大に発揮して、地獄の縛をも、ぱっと断ち切り、生命の「上昇」を始めるとの仰せとも拝せよう。
…死の瞬間、それまで蓄えられてきた生命の力によって、あたかもロケットが地上から最大の噴射力で飛び立ち、成層圏を突き抜けて、大宇宙へと飛翔していくように、「寂光の空」なる仏界へと「上昇」しきっていける。
これが妙法受持の人の絶大の功徳である。その宇宙の仏国、仏界は、広々と清浄にして大歓喜に満ち、何の束縛もない自由自在の次元である。
そこから更に、次なる使命の人生を、生まれたい場所と時を選んで、生まれたい姿で、再び出発していける。あたかも名飛行士の、自在な着陸の姿とでもいおうか。