池田先生ご指導

大御本尊に南無妙法蓮華経と唱えたときに、生命(わが存在)の奥底から、心を突き抜けて顕現してくる仏界の生命こそ、得体の知れない心を導き、コントロールしていく力となっていくのです。

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大御本尊に南無妙法蓮華経と唱えたときに、生命(わが存在)の奥底から、心を突き抜けて顕現してくる仏界の生命こそ、得体の知れない心を導き、コントロールしていく力となっていくのです。そして、日蓮大聖人の御書にちりばめられた珠玉のごとき指導や御金言を拝しつつ、わが心を、御本尊の生命にふれさせ、その絶対の確信と獅子吼により蘇生させていく。この絶え間なき実践のなかで、私たち凡夫の心はしだいに縁に紛動させぬ不動の境涯を獲得していくことができます。しかしながら、この仏道修行の過程にあっても「心を師」とする誘惑がしのびこむのも、また、凡夫の悲しさであるといえるでしょう。
この誘惑との戦いこそがある意味では仏道修行の肝要ともいえるのです。また、この観点に立てば求道というのも、つねに、自分の心を近づけようとすることにほかになりません。また、つぎのようにもいえるのではないでしょうか。
「心を師」とする姿は、無限の道程ともいうべき仏道修行の途中で、自己満足し、求道心が止まった状態であり、それは増上慢に通ずる姿です。
これに対して、「心の師」となっていくとは、いつも現在の自分を否定するべき自分と捉え、より一歩高い自分を目指す謙虚な心であり、求道の炎を絶やさない姿といえるでしょう。そして「心の師」になっていこうと、絶えず求道していく信心のみなぎった生命には、おのずから「心を師」にしようとする誘惑をも打破していく力が備わってくるのです。こうして「心の師」たらんとする求道心っと「心を師」にしようとする衝動・誘惑との葛藤、相克を勝ち抜くなかに、豊かな高い境涯が確立されてくるのです。
まさに仏道を行ずる者にとって、自己の境涯を高めゆく道程は、緊張感と充実感に富んだ壮大なドラマというべきでしょう。