池田先生ご指導

師の意図が、脈動となって弟子の五体をめぐり、それが自発能動の実践の姿をとる時、初めて師弟不二の道を、かろうじて全うすることができる。

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師の意図が、脈動となって弟子の五体をめぐり、それが自発能動の実践の姿をとる時、初めて師弟不二の道を、かろうじて全うすることができる。
師弟に通い合う生命の脈動こそ、不二たらしめる原動力である。
師の言葉を教条的に理解し、ただ追従することは、弟子にとって極めて容易なことだ。
師の言葉から、師の意図を知り、さらに、その根源にまで迫って、その同じ根源を師と共に分かち合う弟子の一念は、まことに、まれだといわなければならない。
しかし、このまれなる一念の獲得にこそ、師弟不二の道の一切が、かかっているのである。


師弟不二とは、師の心をわが心として生きることであり、いつ、いかなる時も、己心に厳として師匠がいることから始まる。
いくら”師弟の道″を叫んでいても、自分の心に師匠がいなければ、もはや、仏法ではない。
師匠を、”自分の心の外にいる存在″ととらえれば、師の振る舞いも、指導も、自身の内面的な規範とはならない。
そして、師匠が自分をどう見ているかという、師の”目″や”評価″が行動の基準となってしまう。
そうなると、”師匠が厳しく言うから頑張るが、折あらば手を抜こう″という要領主義に堕していくことになりかねない。
そこには、自己の信心の深化もなければ、人間革命もない。