池田先生ご指導

大聖人のご生命のこもった題目を日に日に身に染み込ませ、心にきざみ、生命に染めて、一日の行業をみな慈悲の姿に変わるよう、信心をはげまなくてはならない。

スポンサーリンク

身分は低くとも、いかなる地獄の世界に生きようとも、大聖人の百万分の一のご慈悲たりとも身につけんと、朝な夕なに唱題に励まなくてはならない。それには、大聖人のご生命のこもった題目を日に日に身に染み込ませ、心にきざみ、生命に染めて、一日の行業をみな慈悲の姿に変わるよう、信心をはげまなくてはならない。


吾人の生命が永遠であるとするならば、日常におこる事件というものは、わずかの瞬間敵波動である。その波動が人生の全体であるように考えて、さわいだり、泣いたりしている。ところが、人々が永遠の生命の波動であるという自覚をもつときに、自分のさわぎや、悩みが雲散霧消するであろう。
波動が永遠の生命の瞬間であるとのみ考えることは、因果論であり、宿命論である。たえずあきらめていかなければならない。この思想が念仏や禅宗や真言宗をつくったのである。