池田先生ご指導

妙法を縁としての行為の因果は、善につけ悪につけ、通途の次元の行為の因果とは比較にならないほど大きい。その最大の悪業である謗法の罪を消滅するには、最大の善業である正法の信受・弘通による以外にない。

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妙法を縁としての行為の因果は、善につけ悪につけ、通途の次元の行為の因果とは比較にならないほど大きい。その最大の悪業である謗法の罪を消滅するには、最大の善業である正法の信受・弘通による以外にない。


法が深ければ深いほど、仏が偉大であればあるほどその実践修行は簡便になる。


御本尊を拝することは、法華経に染められることであり、私達凡夫にとっては最高の善縁にあって生命が浄化される故に、浄法である仏界が顕現するのである。仏界が顕現して不幸になるわけがない。そこに功徳の実証が示されるのである。


結局、折伏行も、題目も教学も、一切の仏道修行が、わが己心の釈迦多宝を、ハッキリ見るためである。


いくつかの悩みや難を乗り越えたからといって、それで宿業との戦いが終わったと決めるのは早計である。
私たちの一生は、最後まで、宿業との戦いであると覚悟すべきではないだろうか。


健康という幻想
「心配のない世界でストレスもひずみもない生活を想像するのは心楽しいことかもしれないが、これは怠けものの夢にすぎない。人間生活は動的プロセスなのに、楽園は静的概念だから、地球上に別の楽園を見いだそうとしても、むだである。(中略)人間は必ずしも自分のためではなく、永遠に進んでいく情緒的、知能的、倫理的発展のために、戦うように選ばれているのだ。危険のまっただなかで伸びていくことこそ。魂の法則であるから、それが人類の宿命なのである」