この御本尊を受持したわれわれは、すでに、釈迦仏法の衆生があらゆる修行を重ねて五十一位の段階を登ったと同じ結果を、労せず掴んでいるのである。
信心の要諦は御本尊と私たちの生命との感応妙、境智冥合のいかんにある。
入信して御本尊に題目を唱えていくと、御本尊と私たちの生命とが、ぴたりとふれ合い、境智冥合するようになってくるのです。
これは各人の信仰の度合いによることなので、いちがいとはいえませんが、信仰の進むにしたがって、そのようになってくるのです。
南無妙法蓮華経とは、生命を変化させる大元である。われわれが南無妙法蓮華経と唱えることは、その変化させる大元を、自分の生命の中に取り入れることになるのである。
したがって、自分の望む方向に物事が変化していって、願いが叶うのは、むしろ当然のことなのである。
ただし、本当は、取り入れるのではなくて、
「所詮日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは、併ら護念の体を開くなり」
とあるように、われわれの生命自体が、本来、南無妙法蓮華経の当体なのである。