自分自身の誓願の堅固な一念が、諸天善神の誓願の働きを呼び起こすのです。
『必ず心の固きに依りて神の守り強し』です。牧口先生も大切にされていた御文です。
他の御書でも『御祈りの叶い候はざらんは弓のつよくしてつるよわく・太刀つるぎにて、つかう人の臆病なるようにて候べし、あへて法華経の御とがにて候べからず』等と仰せです。
大聖人は一貫して、願い叶えていくためには強盛な信心こそ肝要となることを強調されています。
何よりも、大聖人御自身が、「竜の口の法難」の折、処刑の場に向う途中で、法華経の行者を守護すべき八幡大菩薩に向って”なぜ、法華経の行者を守護すると誓った約束を果たさないのか”と叱咤し、諸天を諌暁されました。
究極は諸天にお願いするものではなく、妙法の当体である自分自身の諸天を”揺り動かす”信心こそ根幹なのです。
『一身一念法界に編し』とある如く、わが一念が三千法界に広がるのです。いわば、悪鬼や魔民も含めて全宇宙が味方となる。
これが妙法の無窮なる力用なのです。
大宇宙は、瞬時もとどまりません。常に動き続けている。その究極の法則こそ、法華経の真髄である南無妙法蓮華経です。
『当に知るべし日月天の四天下をめぐり給うは仏法の力なり』です。妙法は、万物を成り立たせている根源の大法なのです。
題目を唱え、妙法に生き抜いた時に、大宇宙の妙なる旋律と自身の生命が合致していく。
祈りは、大宇宙と、わが小宇宙との交流です。妙法の祈りによって、私たちは、宇宙の最極の「力」と「智慧」と「慈悲」の生命をわが身に顕現することができるのです。
だからこそ常に大聖人が教えられているのは、弟子の側である私たちの祈りの姿勢です。
願いを成就していくうえで心すべきことは、祈りが叶うまで何度も「勇気」を奮い起こして、信心を貫き通していくことです。