人間は、まだ、その自負する最高の知能をフルに駆使しても、生命の優秀な機能には、はるかに及ばない。そして、生命の本質的な機能の大部分は、どんなに近代的な、人工の環境の中にいても、あいかわらず、自然環境の変化に適応したリズムを奏でているわけである。
それは、肉体的、生理的な機能だけでなく、精神的、心理的な機能も同じことである。生存の本質に関係している深い次元に入るにつれて、自然との一体性は、ますまず強まっていくのである。このことは、結局、人間の幸福とは一体何なのかという問いに対して、なんらかの解答の手がかりを与えてくれるのではなかろうか。
広宣流布が第六天の魔王との、壮絶な戦いである限り、障魔は、これからも、かならず同志の予測を超えて、誰もが「まさか」と思うところに付け入ってくるであろう。純粋であればあるほど、悪との戦いを忘れたならば、たちまち障魔の虜にされてしまうことを、戸田城聖は熟知していた。ほんの少しでも、心に油断があれば、そこから食い入ってくるのが障魔である。
要するに人は何かを信じて生きている。また、信じなければ生きられない。しかし、それが不完全であったり、遍頗であったときに不幸を感じるのではないか。
結論からいうと、御本尊への信それ自体がその極理となる。
「自分の全細胞を一新させるくらいの決意で祈るのです。六十兆の全細胞ひとつひとつ薬王菩薩をたたき起こして、発動させるのです」
部員さんであれ、あるいは友人であれ、みんなは創価学会に何を求めて集ってくるか。結局は「宗教」を求めてくるんだよ。
「信心」を求めて集ってくる。この一点を、夢にも忘れてはいけない。