やるやらないはむこうの自由です。なにも創価学会へ引っぱりこんでしまわなければ、折伏にならないなどと考えなくともよろしい。
日蓮大聖人様が佐渡からお帰りのときに、ある念仏宗の寺にお弟子をやって、「どうせいっても聞くこともあるまい、しかし一応はいってこい」と命じられたと伝えられております。
これはりっぱな、日蓮大聖人様の折伏ではないですか。
相手は聞くわけがありません。その寺の前を通るときに一応いわなければ仏の精神に反するから、それでお弟子をやって折伏させたのです。
御本尊を受けさせなくても仏様の尊さを賛嘆することが、折伏なのです。そうすれば気が楽になるでしょう。
このような人がいるのです。どうかはいってください、おはいりください。
まるで保険の勧誘員にいわれているみたいです。これでは法を下げます。
入れてあげるのです。折伏してあげるのですから。けっしてはいってくださいというのではありません。御本尊様の功徳を賛嘆すればよいのです。
御本尊様というものはありがたいものだとさえいえばよいのです。
次の日になって女房とけんかしてやめたといっても、それでけっこうなのです。そういってやりなさい。ああけっこう、けっこう、と。
どうしても創価学会員にしなければだめだとか、御本尊を持たせなければだめだとかがんばるから、おかしな事件が起きてしまうのです。
座談会のときに、「あなたやりますか、やりませんか。ああ、”決”一人」などと、勘定しているのではないのですから、そういうことをやってはいけません。
これでは、はいる者もはいらなくなったり、その場ではいるといっても、途中でやめてしまったり、御本尊様をそまつにしたりするのでだめなのです。
私は”決”などをとれと教えた覚えはありません。
そうあわててやらんでも、「きょうは帰って考えてきます。おとうさんと相談します」「女房と話します」それなら、それでいいではないですか。
それを無理やりに御本尊様を持たしてしまうものだから、おやじが怒ったり、女房が怒ったりして、御本尊様を不敬してしまうのです。そういう折伏はいけません。
六軒も七軒もしなくていいから、一人でよいから、ほんとうにありがたいということをわからせて持たせなさい。