聖教新聞ななめ読み

要は自分と他人を比べて、自分が優れ他人が劣っていると思いこむ煩悩。 「自分はすばらしい」と自己像を抱いている。その自己像を壊さないことに修羅のエネルギーは注がれていく。

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慢の生命
要は自分と他人を比べて、自分が優れ他人が劣っていると思いこむ煩悩。
「自分はすばらしい」と自己像を抱いている。その自己像を壊さないことに修羅のエネルギーは注がれていく。
だから人にも「すばらしい人だ」と思わせるために、「本心を明かさない」、すなわち「諂う」のです。
本心と外見が違う。だから心にもないことを言う。
かなり知能犯というか、ある意味で、高級になっている。
「人格面でも優れている」と人に思わせ、あるいは、自分でも思いこもうとする。
「これほど謙虚な自分は立派なのだ」と慢心したりする。
心が曲がっている。自分についても、相手についても、正しく見ることができない。
「慢」とゆう「ゆがんだレンズを通して見る自己像は常に大きく、素晴らしい姿をしている。だから、人から学べないし、自分を反省することもない。人間としての成長もない。
仏道修行の成果を得ていないのに、得たとおごることです。そして、自分勝手な考えに執着して、反省しようとしない。
すばらしい自分という幻想の自己像を守るために、すさまじいエネルギーを出す。
自分自身の向上に、それだけのエネルギーを注げば素晴らしいのに、「偽りの自分」に執着し、守るためにエネルギーを使ってしまう。
そこに修羅の不幸がある。その心はいつもおびえている。自分の本当の姿を暴かれることを恐れている。
帝釈天のような本物の力をもった存在に、慢心を打ち破られると、とたんに池の中の蓮の中に隠れるくらい小さくなってしまう。
「自分には欠点がないと深く信じこんでいる」
「完全性という自己像を守ることに執心する彼らは、道徳的清廉性という外見を維持しようと絶えず務める。彼らが心をわずらわせることはまさにこれである」
「彼らは善人たらんとする動機はないように思われるが、しかし、善人であるかのように見られることを強烈に望んでいるのである。彼らにとって「善」とはまったく見せかけのレベルにとどまっている」
幻影の自画像を守ろうとする。
「邪悪な人間は、自分自身の欠陥を直視するかわりに他人を攻撃する」
「自分自身のなかにある病を破壊すべきであるにもかかわらず、彼らは他人を破壊しようとする」
「自分自身の罪悪感に耐えることを絶対的に拒否する」