さあ、勇敢に進もうじゃないか!――馬上の英雄は、はるか遠くを指さし、兵士たちを鼓舞しているかのようだ。
アルゼンチンの首都ブエノスアイレスにあるサン・マルティン広場。中央に立つ騎馬像は“南米で知らない人はいない”といわれるサン・マルティン将軍である。
19世紀の初め、アルゼンチンは自治政府を樹立したものの、広大な地域を支配するスペイン軍に絶えず脅かされていた。
サン・マルティンは祖国アルゼンチンの独立運動に身を投じるため、34歳の時、帰国。スペイン軍を隣国のチリ、ペルー、ボリビアから追放しない限り、祖国の独立は果たせないと考え、難局を打開するために「アンデス越え」の作戦を着想。これを成し遂げ、アルゼンチンをはじめ、チリ、ペルーの独立を確かなものにしていった。
彼は、「南米解放の英雄」として、ベネズエラのシモン・ボリバルと並び称され、その像は、チリの首都サンティアゴやペルーの首都リマなど各地に設置されている。
池田先生のアルゼンチン初訪問は、25年前の1993年2月14日。北南米6カ国をめぐる平和旅の途上だった。
石造りの美しい街並みから「南米のパリ」と呼ばれるブエノスアイレス。ラプラタ川の河口に位置する湾岸都市は世界的な貿易港として栄え、同国の政治・経済・文化の中心となってきた。
先生はアルゼンチンに7日間滞在し、ブエノスアイレスでの世界青年平和文化祭、アルゼンチンSGI総会など諸行事に出席するとともに、大統領をはじめ、多くの要人と会見した。
帰国後、先生はアルゼンチンに思いをはせつつ、本部幹部会でサン・マルティンの「アンデス越え」に言及した。
万年雪に覆われた6000メートル級の山々がそびえるアンデス山脈。空気が薄く、道は一人が通れるほどの幅しかない。危険な箇所も多く、大軍を率いて向かう者などいない。
しかし、青年サン・マルティンの心は決まっていた。
“今はためらっている時ではない。行動する時である”
それから数年、周到な準備を重ねた末、アンデス越えを決行。兵士たちを引き連れ、厳しい寒さや疲労と戦いながら、約2週間の行軍で、ついに成し遂げたのである。
彼が不可能を可能にした要因は何か――。
第一に「いかなる人であれ、一緒に戦おうという人は、皆“同志”として敬った」。先住民や外国人を“よそ者扱い”せず、奴隷も解放し、仲間とした。さらに「対話」を重ね、一人一人に訴えた。そして、短期間で5000人を超える一級の部隊をつくることができた。
第二に「常に自ら先頭に立ち、苦楽をともにして、皆を励ます心遣いを忘れなかった」。疲れ果てた兵士たちを鼓舞するため、彼は音楽隊にアルゼンチン国歌を演奏させた。アンデスの山々にこだまする祖国の調べに、兵士たちは奮い立った。
こうした逸話を紹介しつつ、池田先生は訴えた。
「私どもも、ともどもに、“広宣のアンデス”を越えてまいりたい。『行動の人』の栄光は永遠である」と――。
「青年の月」7月が開幕した。自ら掲げた目標へ、一歩でも二歩でも前進する人は皆、「青年」である。
広布の同志を大切に、どこまでも温かく励まし合いつつ、青年の心で「栄光の峰」へ出発しよう。