「声無くして人を呼ぶ」ということわざがある。
声を出して呼ばなくても、徳のある人の周囲には自然と人が慕いよってくる。
たとえ役職があり、立場が与えられていても、信用がなく、信頼の薄い人のもとに人はついていかない。それに引き換え、役職、立場がたとえなくとも、一人の人間として人望があり、信頼の厚い人の周りには、おのずと人々は慕いよってくるものである。
その人が実は、真に学会を守り、発展させている人といえよう。
信心といっても、遠いところにあるのではない。それがあらわれるのは、信仰者の最も身近な生活、日頃の振る舞いの上である。また、人格、人柄となっておのずから外面ににじみ出てくるものである。
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僕等はあくまでも事の信仰でゆこう。一歩も踏み外さずに事でいこう。理の信仰とは、頭だけの信仰だ。思想の上だけの信仰だ。口先ばかりの信仰だ。事の信仰というのは、信仰と人生のあらゆる生活の上に、事実をもって、すなわち実証的に信仰を発揮していくことだ。
信仰と生活、仕事は、別のものではない。一体である。信心は信心、仕事は仕事と分けて考えるのは理の信仰である。そうではなく、両者を一体と自覚して、仕事も100%、信心も百パーセント、全力で徹していく。そうハラを決めたとき、人生は勝利の軌道に入っていく。
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広宣流布の闘争は観念論ではない。抽象論ではない。現実にどれだけ行動したか。どれだけ祈ったか。語ったか。手を打ったのか。現証はどうか。その積み重ねが一切を決する。青年の異名は行動である。今こそ広布の全責任を担って立て! 先頭をゆけ! そしてすべてに勝て!
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