
池田先生ご指導


理論や理屈によるというよりも、ほとんどの方は、身近な学会員の姿を見、真心に触れて入信してくる。

しかして、信心により、仏界の顕現があるとき、これらの地獄界等は、決してなくなるのではなく、いままで不幸へと働いていたのが、かえって幸福へと働くようになる。奥底の一念が汚れ、力弱かったために、それらの働きに引きずられていたのが、今度は強き一念によって、それらを逆に引きずり、用いていくのである。

宿命は、それぞれみな違ったものをもっている。しかし、こうなりたい、ああなりたいと思う方向へいけるのが妙法なのであります。 信心によって、自分のいきたい方向へ十分いけるのです。

祈りは叶うまで続けよ …では、時として、祈り叶わないように見えるのは、なぜなのか。

「我が心性」とは、われらの生命である。われわれの生命は無始無終であり、永遠不滅の存在である、しかも、それは芥子粒ほどの小さな物体に宿るのも自在であり、大宇宙に充満することも自由である。すなわち、時間、空間ともに超越した不可思議の存在であるとおおせである。

魔とは観念ではない。生命自体の一実相であり、さまざまな現象となってあらわれてくるものである。幸福への反作用である以上、魔はあらゆる姿で仏道を求める者を妨害しようとするのである。

御本尊を信じて朝晩きちんと拝み、念じ、訴えるならば、その一念によって、全宇宙というものが、自分の願いと同様に作用し、願いどおりになる。

広布のために命懸けで仏法を実践する行動のなかでしか「仏と魔」「善と悪」を見破る力は培われない。
