聖教新聞とっておきの一枚

「青年よ世紀山」「青葉繁 父子曲」――諫早文化会館で行われた県幹部会の席上、池田先生が長崎池田青年塾でしたためた書が披露された(1982年5月26日)

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「青年よ世紀山」「青葉繁 父子曲」――諫早文化会館で行われた県幹部会の席上、池田先生が長崎池田青年塾でしたためた書が披露された(1982年5月26日)

 長崎県のほぼ中央部に位置する諫早市。

 県下最大の穀倉地帯として栄え、産業拠点としても発展。石橋として日本で最初に重要文化財に指定された「眼鏡橋」など、歴史ある建物や史跡も多い。
東を有明海、西を大村湾、南を橘湾に囲まれ、北に多良岳を望む自然豊かな同市は、“食”も自慢の一つだ。鰻や牡蠣などの「海の幸」に加えて、肥沃な丘陵地帯は野菜やミカンの特産地となっている。
中でも、森山町で栽培される「唐比レンコン」は、かじると納豆のように糸を引き、ホクホクとした食感が特徴。出荷量が少ないことから、“幻のレンコン”と呼ばれる。
この幻のレンコンをふんだんに使用したメニューが味わえるのが、飲食店「お食事処 朝比」だ。池田佳文さん(男子部本部長)が、祖母の代から続く店を、家族と切り盛りする。
料理人を目指し、20歳の時に上京した。男子部の先輩が足繁く通ってくれ、発心。真剣に祈り、願った通りの料理関係の職場に就職できた。
“いよいよ、これから”――母から電話があったのは、そんな時だった。不景気のあおりを受け、「朝比」の売り上げが激減していた。“親を支えよう”と、郷里へ戻ることに決めた。
店を再建する自信はあったが、負債は増えるばかり。自暴自棄に陥りかけた時、地域の婦人部が「今こそ、信心で立ち上がるのよ」と励ましてくれた。猛然と祈り、かつてない本紙の購読推進も成し遂げた。
その中で、考案したのが唐比レンコンを使ったメニュー。これが大ヒットし、テレビや新聞でも紹介されるように。今では開店前から客が並ぶほどの人気だ。
「自然豊かで、のどかなこの町が大好きなんです。多くの人に町の良さを知ってほしい」
消防団や、商工会青年部など、地域活動でも活躍。学会活動にも率先し、1月には弘教を実らせ、本部で部平均2人の大学校生を輩出した。
“地域広布は自身の姿を通して”――その誓いのまま、きょうも池田さんは、愛する地域を駆ける。

県女子部長、白蓮グループの総県副委員長を務める吉川彩華さん。諫早で育ち、地元に本店を構える種苗販売会社に勤務する。
「野菜や花の種を扱うため、四季の移り変わりを感じながら働いています」
就職したころは、農業の知識がなく苦労した。さらに、自分の意見を述べることが苦手で、職場での人間関係をうまく築くことができなかった。
そんな時、何度も通ってくれる女子部の先輩に勇気をもらい、学会の会合に参加するように。悩みを抱えながらも前を向いて生きる華陽姉妹の姿に、“困難から逃げるのではなく、乗り越えていこう”と決めた。
職場では、元気なあいさつを実践。以前にも増して真剣に業務に取り組んだ。そうした姿勢が次第に評価され、社史の編纂などに携わるように。周囲から「いつも笑顔で素晴らしいね」と声を掛けられることも多くなった。
「偉大な平和の指導者に」との師の指針を胸に刻む吉川さん。
“池田先生のように、どこまでも一人を大切に”との心で、朗らかに友情の連帯を広げる。

 栄光の共戦譜

●誓願の人生は深い 覚悟の人は強い

 「今こそ東洋広布の時。その先端を担うのは、歴史を眺めても長崎以外にない」
1958年(昭和33年)11月15日、長崎に第一歩をしるした池田先生は、長崎支部の結成大会(長崎市内)でこう訴えた。若き闘将の師子吼に奮い立った友は、団結固く前進を開始した。
10年後の68年(同43年)3月20日。池田先生は諫早市を初めて訪問。県内各地から4500人の同志が集い、記念撮影が行われた。
朝から降り続いていた小雨をものともせず、八十数台のバスが、会場の体育館に続々と到着する。
午後2時40分から始まった撮影は、2基の撮影台で計18回に及んだ。その合間、先生はマイクを握り、各部に渾身の激励を送った。
壮年部には――「信心だけは青年のように、若々しい青春の気持ちで貫き、人生と社会の勝利者に」。
婦人部には――「すぐには目に見えなくとも、幸せになっていないのではない。必ず幸せになるという決意で信心を実践していこう」。
女子部には――「信心だけは流されず、ついていらっしゃい。ついてくれば、雨の後に晴天があるように、必ず幸せになるんだよ」。
男子部には――「正義や人間形成、善、理想、大志、希望といったものは、広宣流布を目指す学会の実践に、全部含まれる」。
この日は後に、「長崎の日」に。毎年の師弟の原点の日を、友は弘教と人材の拡大で飾りながら、本年、50周年の佳節を刻んだ。
記念撮影に参加した早田義明さん(長崎池田県、県議長)。「終了後、雨の中を、最後まで手を振ってバスを見送ってくださった先生のお姿は脳裏から離れません」。この時、先生が高熱を押して出席していたことを、後になって知った。
先に入会していた妻・眸さん(同、県婦人部主事)に折伏され、61年(同36年)に入会。第1次宗門事件では、悪侶と退転・反逆者による学会批判の嵐の中で、同志の励ましに奔走した。
82年(同57年)5月23日、池田先生は、落成間もない諫早文化会館を訪問。5日間にわたって、広宣流布の指揮を執った。この時、早田さんは地元のリーダーとして師を迎えた。
「長崎池田青年塾」の開所式、7000人が集った自由勤行会、陰で支える運営役員への励まし……。寸暇を惜しむ師の激励行を、早田さんは瞼に焼き付けた。この時、師から贈られた「諫早の 友を頼まむ 祈るらん 幸多かれと 我れは見つめむ」との和歌は一家の宝となっている。
師との原点を胸に、脳梗塞、がんを乗り越え、現在は地元の老人会で会計、事務局長として、地域に尽くす早田さん。
広布の道を歩む3人の子や、8人の孫、5人のひ孫に囲まれ、幸福境涯を勝ち開いた今も、「先生からの大恩に生涯懸けて報いていきます」と意気軒高だ。

幾多の友が、忘れ得ぬ師弟の原点を築いた82年5月の長崎指導。26日には、県幹部会が行われた。
「淡々と己の使命に生き抜きながら、毀誉褒貶に左右されず、御書に説かれた八風におかされず、成仏の大道を、そして広宣流布の正義の道を歩みゆく人々こそ、真に大聖人より称賛される信仰者であるということを、絶対に見失ってはならない」
「誓いを持つ人生は深く、充実がある。覚悟を決めた人ほど強いものはない」
幹部会に参加した山﨑千代子さん(長崎総県、総県副婦人部長)は、この時の先生のスピーチを命に刻む。
60年(同35年)、貧乏のどん底の中で両親が入会。翌年、山﨑さんも続いた。
高校卒業後、就職し、大阪・堺市へ。3年間で6世帯の弘教を実らせた。72年(同47年)、堺の地で先生との記念撮影に参加したことは、黄金の思い出だ。
その後、長崎に戻り、結婚。2人の子宝にも恵まれ、ヤング・ミセスの中心者としても奮闘した。
94年(平成6年)、諫早圏(当時)の婦人部長に。その年、九州一の弘教・拡大を達成した。ところが翌年、突然手足のしびれに襲われる。難病の「後縦靱帯骨化症」と診断を受けた。
“これだけ頑張っているのになぜ!?”――動揺する心を抑えながら、真剣に祈った。本紙を読む中で「願兼於業」という言葉が目に留まった。“病を抱えた人を励ます自分になるために、自ら願った苦難。必ず意味がある”と一念を定めた。
闘病の中で行われた圏の総会で、池田先生が贈った和歌に、こうあった。
「断固して 宿命転換 乗り越えて わが人生に 万歳 叫べや」
“万歳と叫ぶ勝利の人生を”と自身を奮い立たせた。“歩けなくなる”との診断を覆し、今では、はつらつと学会活動に奔走する日々だ。
夫の輝喜代さん(副圏長)も一昨年、信心根本に大病を克服。長女の雅美さん(副白ゆり長)、長男の貴彦さん(男子部副本部長)も後継の道を歩む。
山﨑さんは誓う。「先生が長崎広布の魂を打ち込まれた“原点の地”で戦う誇りを胸に、幸の輪を広げていきます」

諫早広布の原点である68年3月の“雨の記念撮影”で、先生は呼び掛けた。
「大福運を積んで、衆生所遊楽の人生を」
「日本中、世界中を駆けていくような一生を」
諫早初訪問50周年を勝ち越え、11月の長崎広布60周年の峰を目指す諫早の前進は、勢いを増している。