御本尊に対する「信」の強弱によって、その行動の強弱が決定され、その行動の強弱に応じて功徳は顕れ、幸福な人生を満喫できるかどうかが決まるのです。 したがって「信」のない仏道修行はありえないし、そのように見える形のものがあったとしても、それは手なくして宝の山に入ったようなもので、功徳を自分のものとすることはできないのです。
よく「御本尊は信じるが、日常の活動はどうも…」という人がいます。しかし、信があるのなら必然的に仏道修行を行なうはずです。実践をともわなない信はありえないといっても過言ではありません。厳しい言い方かもしれませんが、「活動はどうも…」というのは、信がないのです。だから、そのような人には功徳が実証できませんし、幸福な人生を築くことはできません。
功徳の実証のない姿は、そのまま、不信の証拠でもあります。信というのは、目には見えませんが、生活の実相として現われてくるものなのです。