いじめを 受けている子どもたちは、わが身をすり減らして社会や大人に 警鐘を 鳴らしてくれている。そのサインを見逃さず、
子どもたちが 伸び伸びと 成長していけるよう、学校と家庭と地域が 協力できるか否か、そこに「教育力」の真価が 問われている。
女性に贈る100文字の幸福抄
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相談することは 恥ずかしくない。だれだって、完全な人間なんかいない。欠点だらけです。だからといって、その人を「いじめていい」ことになりますか。そんなことを言ったら、「いじめている」側のほうが、
よっぽど不完全で、卑怯ではないか。人間として最低でしょう。「みんながやっているから」「だれかが言ったから」「いっしょに、いじめないと、今度は自分がやられるから」。
もしか、そんな理由で、簡単に人をいじめるのを「柔軟性」というのならば、そんな「柔軟性」なんか、ないほうがいい。そんなのは 柔軟性ではなく「付和雷同」というのだ。
日本人の一番悪いところです。だから、「いじめられている」人は、決して、
自分を 恥ずかしいと 思ってはいけない。自分を、みじめに 思ってはいけない。
「恥ずかしがらないといけない」のは、いじめている側です。そちらの方が、本当は「みじめな人間」なんです。
だから、胸を張りなさい。目を伏せてはいけない。そんな、くだらない人間の仕打ちに 負けてはいけない。
負けたら、自分が損だよ。「いじめられる側にも 原因がある」というのは、
いじめる人にとって、都合がいいから、そう言うのです。また、いじめを「見て見ぬふり」とをしている人が、
自分の勇気のなさを ごまかす「言いわけ」です。私は、そう思う。それじゃ、いじめている人間が「強い人間」なのか。
そうじゃないでしょう。人を苦しめる人間の、どこが強いんですか。人間として、一番弱い、一番醜い心ではないですか。
自分で自分の醜い心に負けている「弱い人間」ではないですか。そういう暴力的な人間を「強い」ように勘違いしているところに、
「いじめ」の根源がある。日本社会の狂いがある。
希望対話普及版