は牧口会長の死を知らなかった。
昭和十八年の秋、警視庁で別れを告げたきり、たがいに三畳一間の独房に別れ別れの生活であったからである。二十歳の年より師弟の縁を結び、親子も過ぎた深い仲である。毎日、独房のなかで、「私はまだ若い。先生は七十五歳でいられる。どうか罪は私一人に集まって、先生は一日も早く帰られますように」と大御本尊に祈ったのである。
牧口先生の先業(せんごう)の法華経誹謗の罪は深く、仏勅のほどはきびしかったのでありましょう。昭和二十年一月八日、投獄以来一年有半に、「牧口は死んだよ」と、ただ一声を聞いたのであった。
独房に帰った私は、ただ涙に泣きぬれたのであった。
ちょうど、牧口先生の亡くなったころ、私は二百万べんの題目も近くなって、不可思議の境涯を、御本仏の慈悲によって体得したのであった。その後、取調べと唱題と、読めなかった法華経が読めるようになった法悦とで毎日暮らしたのであった。
その取調べにたいして、同志が、みな退転しつつあることを知ったのであった。歯をかみ締めるような情けなさ。心のなかからこみ上げてくる大御本尊のありがたさ。私は一生の命を御仏にささげる決意をしたのであった。敗戦末期の様相は牢獄のなかまでひびいてくる。食えないで苦しんでいる妻子の姿が目にうつる。私は、ただ大御本尊様を拝んで聞こえねど聞こえねばならなぬ生命の力を知ったがゆえに、二千べんの唱題のあとには、おのおのに百ぺんの題目を回向しつつ、さけんだのである。
「大御本尊様、私と妻と子との命を納受したまえ。妻や子よ、なんじらは国外の兵の銃剣にたおれるかもしれない。国外の兵に屈辱されるかもしれない。しかし、妙法の信者戸田城聖の妻として、また子と名のり、縁ある者として、霊鷲山会に詣でて、大聖人にお目通りせよ。かならず厚くおもてなしをうけるであろう」