我見や慢にとらわれた自己というものを取り去って、生命それ自体になった状態で、仏説に体当たりせよということですね。
すなわち、仏やその説法と自分とのあいだにいかなる不純物をも介在させずに、生命と生命との触れ合いのなかで、究極の真理を体得しなければならないといっているのです。
見我にしても慢我にしても、結局「我」の本来の軌道から逸脱しているのであって、その報いは自分がうけなければならない。もともと私たちの「我」の軌道は知ると知らざるにかかわらず、南無妙法蓮華経の一法にのっとっているわけです。
その軌道からはずれたところで、自己の意識や精神によって構築した見解や慢心は一種の蜃気楼みたいなもので、幻影の世界にすぎません。
人間本来の生き方である仏法の極理を体得するためには、まず、この仮相された小さな世界を紛砕しなければならない。