折伏は折り伏せることではないかと批判される場合がありますけれども、その真義は善心を折ることによって、その奥に隠れていた、その人の自我を引き出し、拡大することなのであります。

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自分で自我を拡大していこうと働くのは、勤行、唱題のとき以外は、エゴイズムに陥る危険性があるということも忘れてはならない。相手の自我拡大に努力した人だけが、その果報として、自分の自我が拡大するといえるのであります。
対話といい、指導といい、折伏といい、すべてはこの方程式でなければ、功徳を生まないと思います。折伏は折り伏せることではないかと批判される場合がありますけれども、その真義は善心を折ることによって、その奥に隠れていた、その人の自我を引き出し、拡大することなのであります。どうか、よくよくこの方程式に徹して、立派な仏道修行者として、また人間として大成されますことを、私は心からお願い申しあげるものであります。
「心根は猿猴の如くにして、暫くも停まる時あることなし。若し折伏せんと欲せば、当に勤めて大乗を誦し、仏の大覚身、力無畏の所成を念じたてまつるべし」
「自分の心を折伏せよ、そのためには題目を唱えよ」
唱題に励んで、まずわが凡夫の迷心を折伏しなかったならば、先の御書で説かれている、「一切衆生は皆、孝養を尽くすべき、われらの先生の父母である」という心境、境涯にもなれますまい。まず自分の心を折伏してかからなければ、とても善へ導く化他の折伏へは行動を起こせない。自分のほんとうの真心というのは涌現できない。これで「折伏は信仰の押し売りでは絶対にない」ということがおわかりと思う。