信仰体験

今週の「誌上セミナー」は、鮮烈な歌手デビューを果たし、数多くのドラマ、映画、CM、また社会活動など、幅広い活躍を続ける田中美奈子さん。 デビュー当時から変わらぬ人柄と美しさが、世の人を魅了してきました。 一見、華やかそうに思える人生。しかし、その”舞台裏”で繰り広げられていた”ドラマ”とはーー。

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田中美奈子PROFlLE
千葉県出身。モデルを経て1989年に「涙の太陽」で歌手デビュー。
多くのドラマやCMなどで活躍する。愛玩動物飼養管理士、アロマセラピスト、トリマー(イギリス)などの資格を持ち、動物愛護団体の代表としても活動。
2016年、パラオ名誉親善大使に就任。芸術部員。

華々しい”バブル時代”のイメージがあって、あまり苦労してなさそうに思われがちですが、実は結構、苦労をしてきました(笑い)。
学会員の皆さんなら、どなたがお話をされでも、素晴らしい体験をお持ちなので、本当に恐縮ですが今日は、私の拙い体験をご紹介できればと思います。

アパートの天丼が……

小さい項、私は6畳1間、お風呂なしのアパートで育ちました。ある日、近所の銭湯から帰ると、なんとアパートの天井がなくなっていました(笑い)。
上の部屋でガス爆発が起き、吹き飛んでしまったのです。
もし、あの時、銭湯に行っていなかったら……ここにいなかったかもしれません。
消火作業の放水で、ずぶぬれになった部屋から、一生懸命、家財道具を運び出してくれたのが、地域の学会員の方でした。
母は入会だけはしていたものの、学会活動には消極的でした。お礼を言うため、母は初めて座談会に参加。学会の温かさに触れ、それ以来、活動に取り組むようになりました。小さい項から、私も、母の聖教新聞の配達をお手伝いしていました。

創価家族の温もり

私が小学校5年生の頃、両親は、家庭不和の末に離婚。多感な時期で、一人っ子ということもあり、温かな家族への思いが、人一倍強くなりました。
母一人、子一人の生活。母は、朝も夜も働きづめ。私が寂しい思いをしているのを察して、地元の女子部の方が、本当に親身になって、私の面倒を見てくれました。
受験の時も、家に通って勉強を教えてくれました。
まるで本当の家族のようで、今振り返っても、「なんてありがたいんだろう」って思います。学会の温もりの中で、育ててもらいました。

夢の歌手デビューへ

「お母さんに楽をさせてあげたい」という思いから、私はいつしか、歌手になることを夢見るようになりました。
少しずつ芸能活動を始め、18歳を迎えた時。あるオーディションで合格すれば、歌手デビューできることを知りました。
応募総数は、全国で約1万5000人! 夢をかなえたい一心で、一生懸命、祈って挑戦しました。
思いもかけず、オーディショの最終選考まで残ったものの、もともと予定していた、大事な別のテレビの什事と、最終選考の日が完全に重なってしまいました。
それでも、あきらめきれず、寝ないで必死に唱題しました。
すると、選考の直前で、変わるはずのないテレビの仕事の時間が変更に。その結果、オーディションに最後まで参加することができ、見事、合格することができたのです!

「感謝の心」を忘れず

その後、1989年に、念願の歌手デビュー。「祈れば、本当に夢は実現するんだ!」と、大きな信心の確信をつかみました。
しかし、私が歌手デビューしたのは、20歳を過ぎた時。当時では、かなり遅い方でした。
ある有名なプロデューサーから、「その年齢で、そのやり方じゃ売れないよ」と言われてしまいました。本当にショックで、”やっぱり、私には無理なんだ。芸能界なんて向いてないんだ”と、家に帰って泣きました。
でも、泣きながら御本尊様に向かって祈ると、だんだんと心が変わっていきました。本当にショックで、”やっぱり、私には無理なんだ。芸能界なんて向いてないんだ”と、家に帰って泣きました。
でも、泣きながら御本尊に向かって祈ると、だんだんと心が変わっていきました。
”たとえ、100人のうち、99人が私をダメだと言っても、私だけは私を信じてあげなきゃ”と。”自分があきらめない限り、不可能はない。絶対に見返そう!”と決意できました。
それからは、一つ一つの仕事に真剣に打ち込み、唱題にも挑戦。連ドラ2本、ラジオのレギュラー2本、バラエティーのレギュラー3本、CM9本、コンサート、レコーディング……振り返ってみれば、もう大忙し(笑い)。
1週間で10時間寝られるかどうか、というハードスケジュールを約2年間、こなしてきました。
ある時、私にダメ出ししたプロデューサーとばったり会いました。すると、「ごめんね、美奈ちゃん。僕が間違っていたよ」と謝ってきたのです。あの出会いには意味があったんだと、心の底から感謝できました。
「感謝の心」を忘れず、自分を信じて努力を重ねていけば、夢への道は、必ず開けることを教えてもらいました。

”抜け殻”のように

多忙な日々を送る中、大きな支えになったのが、家族の存在でした。
特に、母が再婚した義父は、血のつながりはなくても、私を本当にかわいがってくれ、誰よりも私の思いを理解し、芸能活動を応援してくれました。
「いよいよ、親孝行をしよう」。そう思っ持た矢先ーー。
義父が突然、くも下出血で倒れ、43歳の若さで帰らぬ人となったのです。
私の中で、”プツン”と何かが切れてしまったような気がしました。家族への思いが強かった分、反動が大きかったのです。
すべてが嫌になり、”抜け殻”のような状態になりました。御本尊様の前にも、座れなくなりました。
心のどこかで、信心でしか乗り越えられないことは、わかっていました。でも、反発する心がまさり、学会の同志からも離れてしまいました。
すると、見る見るうちに、空転していきました。仕事は減り、人間関係もギクシャクするように。それまで一緒に仕事をしてきた人たちが、どんどん離れていきました。
怖いくらい”負の連鎖”に陥りました。

もう一度

そんな状況でも、私を見捨てず、祈り、励まし続けてくれたのが、芸術部の仲間でした。
私を会合に誘うのも、きっと勇気が必要だったと思います。山本リンダさんや島田歌穂さん、ドリーミングをはじめ、多くの方が私に寄り添ってくれました。
やがて、仏壇の前に座って、再び手を合わせられるように。「義父が今の姿を見たらきっと悲しむ。義父のためにも、もう一度立ちがろう」と思えたのです。そして、仲間の励ましのおかげで、仕事に、学会活動に、再び挑戦できるようになりました。
私がつらくて悲しい時、学会の同志は、心から同苦してくれました。私がうれしい時、自分のことのように喜んでくれました。
こんなにすできな仲間が自分にはいるんだーーそう思った時、これから先、何が起きても怖くないと、心から思えました。お互いを励まし、支え合い、共に成長していける。本当にかけがえのない仲開を私は得ました。

「よく頑張ったね!」

私にとって忘れられない大きな転機があります。2005年のことです。体調・不良に陥り、病院で検査を受けました。診断の結果は、粘膜下筋腫。命に影響はなかったものの、手術を受けることになりました。
そんな私に、池田先生から体調を気遣う伝言をいただいたのです。「大事にしなさい。日本の歴史に残る大女優になるのだから」と。思いもかけない励ましに、目頭が熱くなりました。
”病気なんかに負けない!”と臨んだ手術でしたが、全身麻酔した後、麻酔に対する特異体質から、呼吸困難に陥りました。病院中の麻酔医が全員、あわわてて手術室に入ってきたそうです。なんとか一命を取り留めることができ、麻酔から覚めたベッドの上で、その事実を聞きました。
「私は救われたんだ」ーー初めて”死”と直面し、”生きている”こと自体がありがたくて、感謝の思いがあふれました。
退院後、すぐに撮影現場に戻ると、それまで見慣れていたはずのテレビカメラ、照明器具も台本も、すべてが新鮮に輝いて見えました。
一つのシーン、一つセリフに、より真剣に、丁寧に、感謝を込めて臨めるようになりました。女優としても、新たな出発を切ることができたのです。
その後、本部幹部会に参加させていただく機会に恵まれました。席上、表彰を受けるため、壇上にあがった時、池田先生はまるで小さな子どもの頭をなでるように、私の頭に手を乗せてくれました。 「よく来たね!よく頑張ったね!」
先生は全部わかってくだきっているーー私はこんなに涙があふれるのかと思うほど、感動の涙でいっぱいになりました。

新しい命を

その後、2007年、縁あって、同じ地域の男子部で活動していた主人(俳優・岡田太郎さん)と結婚。そして、おなかに新しい命を授かりました。
しかし、喜びもつかの間、流産の危機に。主人の支えのおかげで、一命を取り留めたものの後日、子どもの脳に異常が見つかり、脳障がいの可能性があることを告げられたのです。
「何としても宿命転換を」と両家が一丸となって祈りました。
すると、検査の結果、医師からこう告げられました。「二つあった脳の異常は消えてなくなりましたよ!良かったですね」
念のため、別の病院でも、再検査しましたが、異常は、跡形もなく消えてなくなっていました。お題目のすごさを、まざまざと感じた瞬間でした。
そして、同志の皆さんの祈りに包まれる中、無事、元気な女の子が生まれたのです。

「一家和楽の家庭」へ

さらに、長女の出産の翌年、定期健診を受けました。実は、粘膜下筋腫の手術をした際、小さな筋腫が残っていました。時間が経過していたので、かなり大きくなっているのではと、手術を覚悟していました。
すると医師は、「あれ 筋腫がなくなっていますね。その代わりに赤ちゃんがいるみたいです」と。なんと、男の子を授かっていたのです!
今、2人の子どもは、すくすくと成長し、小学生に。創価の学びやに進み、末来部でも元気いっぱい活動しています。
先日、その長女は、自分が命の危険や脳障がいの可能性があった中、元気に生まれてきた体験を、がんを患っている方に話してくれました。
その方は、長女の話を間き、「私も、信心でがんを克服したい」と学会への入会を決意してくれたのです。
子どもたちが元気に成長し、後継の道を歩んでくれていることが、私にとって何よりの喜びです。小さい頃から、強く願い続けてきた一家和楽の家庭が、結実しようとしているのを強く実感します。

文化・芸術の交流へ

そして今、思いもかけなかった、新たな使命の舞台が広がりつつあります。
デビュー当時、写真集の撮影でパラオ共和国を訪れる機会がありました。七色に輝く美しい海に魅了され、それから毎年のようにパラオに行きました。
パラオの皆さんの愛惜豊かな人柄も大好きで、私にとって”第2の故郷”のような場所です。
子どもたちにも、パラオの海を見せてあげたいと家族でも訪れ、かつてガイドをしてくれた方とも、久々に会いました。
実は彼は、パラオのエビン人統領の息子さんでした。「大好きなパラオの役に立ちたい」という私の思いを、彼は現在のレメンゲサウ人統領にも伝えてくれ、出会う機会をつくってくれました。
私がSGIメンバーであることを伝えると、レメンゲサウ大統領は驚き、大変に喜んでくれました。大統領は、池田先生とも交流を重ねてこられ、大変に敬愛されていたのです。
大統領に、私の写真集をお見せすると、思いがけず、「もうすでに、パラオを宣伝してくだきっているのですね。ぜひ、『パラオ名誉親善大使』になってくれませんか」と呼びかけてくださったのです。
そして2016年、正式に大使に就仕。両国の親善につながることであれば、何でもさせていただこうとの思いで、各地を駆け巡っています。
先日、日本で開催された第8回「太平洋・島サミット」の際も、レメンゲサウ大統領をお迎えしました。
文化や芸術の交流などを広げ、パラオと日本を結ぶ懸け橋になっていきたいと強く決意しています。

「一人の人間」として

池田先生は、私たち芸術部に、このように綴られました。
「有名でも/無名でもいい。/有名無名が/幸福を決定しない。/ひたすら/人生を立派に/向上させることだ。/そして/汝自身の芸術を/磨きに磨くことだ」
先生の激励がどれほど大きな支えになったことかーー。
私は、信心のおかげで、同志のおかげで、先生のおかげで、今、こうして生きることができています。何気ない一日一日が、宝のように感じられます。
ドラマのように、人生、いつ何がが起きるかもわかりません。
「この方には、もう二度とお会いできないかもしれない」
ーーそういう思いで、「目の前の一人」に少しでも尽くしていきたいと、強く思えるようになりました。
どこまでも感謝を忘れず、「一人の人間」として輝き、自分にしかない「使命のドラマ」に悔いなく挑戦していきます。

大百蓮華2018年9月号より