池田先生ご指導

自分の生命を磨き、わが胸中の仏性を涌現する以外に、崩れることのない絶対的幸福境涯を確立する道はないんです。

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自分の生命を磨き、わが胸中の仏性を涌現する以外に、崩れることのない絶対的幸福境涯を確立する道はないんです。
自らが妙法蓮華経の当体であると信じられなければ、本当の意味での自信がもてず、自分の心の外に幸せになる道を求めてしまう。すると、どうなるか。
周囲の評価や状況に振り回されて、一喜一憂してしまう。たとえば、社会的な地位や立場、経済力、性格、容姿など、すべて、人と比べるようになる。そして、わずかでも自分の方が勝っていると思うと優越感をいだき、自己を客観視することなく、過剰に高いプライドをもつ。ところが、自分が劣っていると思うと、落胆し、卑屈になったり、無気力になってしまったりする。
さらに、人の評価を強く意識するあまり、周りのささいな言動で、いたく傷つき、“こんなに酷いことを言われた”“あの人は私を認めていない”“全く慈悲がない”などと憎み、恨むことになる。また、策に走って関心を買うことに躍起となる人もいる。
実は、怨嫉を生む根本には、せっかく信心をしていながら、わが身が宝塔であり、仏であることが信じられず、心の外に幸福を追っているという、生命の迷いがある。そこに、魔が付け込むんです。
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例えば、真っ暗な建物や部屋のなかでは、どこに何があるのか分からず、手探りでウロウロするばかりでしょう。机にぶつかったり、思うように歩くこともできませんね。それと同じように、無明に覆われた生命は、自身の生命をよく知らないために、煩悩を制御する手だても知らず、煩悩に振り回されてしまうばかりで、結果として不幸な人生を歩むことになるのです。
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衆生は本来、妙法の当体です。そして、本来、わが生命に具わる妙法の無限の力を、何の妨げもなく、必要なときに必要な形で発揮できるのが仏の生命です。この状態が「玉」のように見える明鏡に譬えられています。しかし、本来は妙法の当体であっても、無明に覆われると、妙法の力を発揮することはできません。この状態が「闇鏡」、すなわち曇って物を映さない鏡に譬えられるのです。
この生命の闇鏡を磨く修行が唱題行にほかならないのです。
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煩悩即菩提
妙法によって生命力を強めれば、すべての煩悩が即菩提になっていく。
悩みが智慧に変わり、幸福になっていく。
信心とは唱題とは、人生のさまざまな苦悩を、ことごとく変毒為薬する力である。苦しみの毒が、幸せという薬に変わる。
煩悩即菩提で、悩みが悟りに変わり、幸福に変わる。悩み、悲しみが大きければ大きいほど、より大きな幸福に変えていける。これが題目の力である。
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