沖縄教学部長 玉城武輝
今回の「心大歓喜――紙上講義で学ぼう」には、玉城沖縄教学部長が登場。「大悪大善御書」の御文を拝し、世界で最初の広宣流布の地帯を築きゆく、沖縄健児の喜びあふれる使命について、つづってもらいます。
御文
各各なにをかなげかせ給うべき、迦葉尊者にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立ってをどりぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか
(大悪大善御書、1300ページ1行目~3行目)
通解
あなた方は何を嘆くことがあろうか。(必ず大善がくるとの喜びに)迦葉尊者でなくても、舞を舞うべきところである。舎利弗でなくても、立って踊るべきところである。上行菩薩が大地から現れた時には、まさに踊り出られたのである。
池田先生の指針から
一人の人間における偉大な人間革命は
一国の宿命の転換をも成し遂げ
さらに全人類の
宿命の転換をも可能にする
その姿を
この天地に現じることこそ
私の そして あなたたちの
この世の使命であり 責務なのだ(長編詩「永遠たれ“平和の要塞”」)
◇
楽しむための人生。しかし現実には、いろいろな悩みがあり、宿業もある。事件もある。それらをすべて、自分で「楽しみ」に変えていくための信心である。苦しみも、悲しみも全部、自分の一念で変毒為薬し、喜びに変え、また喜びに変えていけるのが一念三千の妙法であり、日蓮大聖人の仏法である。ゆえに勇気をもって、強く、まっすぐに生きぬいていただきたい。
幸福は自分自身の勝利である。自分で勝ち取るものである。人からあたえられるものでもない。人をうらやむ必要もない。聡明に、「楽しみ」を自分で見つけ、自分でつくり、自分で広げていく。その「心」、その「境涯」に、「幸福」は躍動している。
自分の中に「宮殿」がある。自分の中に「竜宮城」がある。その喜びの城を、自分で開くことである。ここに人生の、そして仏法の究極もある。(第1回SGIアジア総会記念交歓会でのスピーチ、『池田大作全集』第80巻所収)
民衆勝利の平和の舞を師と共に、同志と共に
戦争ほど、残酷なものはない。
戦争ほど、悲惨なものはない……。
池田先生は、最も戦争で凄惨を極めた沖縄の地で、小説『人間革命』の執筆を開始してくださった(1964年〈昭和39年〉12月2日に起稿)。
“最も苦しんだ沖縄こそ、最も幸福になり、最も平和になる権利がある”と、筆を執られた師匠の深い心に、全同志が感涙し、舞うがごとく、人間革命の勝利劇をつづっています。
今回、拝するのは「大悪大善御書」です。本抄は、災難が続き、社会が騒然とするなかで、門下を激励するために認められたとされています。
大聖人は、掲げた御文の直前で、「大悪をこれば大善きたる」(御書1300ページ)と、「大悪」は大正法が広まる「大善」の前兆であるとの御確信を述べられています。これは、単に待っていれば広宣流布の“時”が来るというのではなく、断じて妙法流布を成し遂げるとの御決意であると拝されます。
池田先生の初来沖は、大聖人が「立正安国論」を提出されて700年となる1960年(昭和35年)7月16日。第3代会長就任直後、沖縄から人類の宿命を転換する平和旅を開始し、世界平和の“時”を創られたのです。
続く御文では、迦葉尊者と舎利弗が“自分も仏になれる”と知り歓喜した姿に続き、地涌の菩薩の上首(リーダー)である上行菩薩が、自ら願い、妙法流布に踊り出たと仰せです。現実が最悪でも、それにとらわれ、嘆くのではなく、歓喜して信心に励み、変革していくことを教えられています。
お手紙を読んだ門下は、“今こそ地涌の使命を果たす時”“ここが使命の舞台”と、喜び勇んで信心に励んだことでしょう。一念は目に見えません。しかし、その微妙な一念の変化から、一人の人間革命が始まるのです。
69年(同44年)2月、私が高校生の時、来沖された先生と記念撮影をする機会がありました。
時代はベトナム戦争の真っただ中であり、米軍基地のある沖縄社会は騒然としていました。“なぜ自分は、こんな時に、この沖縄に生まれなければならなかったのか”と、ぶつけようのない悲しみと憤りを感じていました。先生は、そんな心を知っているかのように、語り掛けてくださいました。
「皆さんには、郷土であるこの沖縄に、平和の楽土を建設する使命があると、私は申し上げておきたい」
自身の心がパッと晴れ渡り、“沖縄に生まれて、本当に良かった”“自分の使命は、この沖縄から生命尊厳の仏法の哲理を広げ、平和の砦を築くことだ”と、まさに踊りださんばかりの歓喜に満たされたのです。先生の言葉を思い出す度に、若き日の感動が込み上げ、今も目頭が熱くなります。
また、沖縄研修道場にあった、米軍の核ミサイル発射台を見た先生は、取り壊すのではなく「基地の跡は永遠に残そう。『人類は、かつて戦争という愚かなことをしたんだ』という、ひとつの証として」と語られました。
今、発射台は「世界平和の碑」として生まれ変わり、平和の発信基地になっています。先生は、沖縄の宿命を使命にまで昇華してくださったのです。
83年(同58年)3月の“雨の沖縄平和文化祭”も忘れられません。皆が晴天を祈るなかでの豪雨。先生は「三万の/平和を祈る/雄叫びは/諸天を動かし/銀の雨降る」と、お歌を詠まれました。「銀の雨」と、すべてを包み込み、雨も無上の宝に変えてくださったのです。
指導者といわれる人たちの多くが、売名のために沖縄を利用してきました。しかし、先生は、沖縄の心を誰よりも知り、そして、抱きかかえるように励まし、一念を転換してくださっています。
池田先生と共に、学会と共に、そして沖縄の同志と共々に、「人間革命」の連帯に連なり、広げゆくことができる福運を実感し、感謝に堪えません。
明年は、沖縄支部結成60周年。先生は沖縄を「世界最初の広宣流布の地帯に」と期待してくださっています。新たな世界広布の「黎明」を、私たち沖縄の弟子一人一人がつづりゆく“時”を迎えていると思えてなりません。
楽しい時、うれしい時に舞うように、師と共に大歓喜に燃えて、民衆勝利の平和の舞を、にぎやかに舞っていきましょう。
恩納村の沖縄研修道場に立つ「平和大歓喜の像」。不戦の願いが込められた女性像は、平和のたいまつを高く掲げ、歓喜に歌い舞う。池田先生は「私は、沖縄から平和旅を進めた。沖縄こそ東南アジア、さらに世界の『平和の港』『平和のキーステーション』になることを願い、信じていた。私は、沖縄を完璧に仕上げたい。世界の“平和の要塞”にしたい」と。同研修道場には、東西冷戦のさなか、核ミサイル「メースB」の発射台の跡が残っていたが、「世界平和の碑」として生まれ変わっている。