御本尊への祈りの質がどうか、冷静に、自身の姿を考えてみましょう。広布への情熱を燃やし、さわやかな、真剣な祈念唱題がなされているかどうか。惰性に陥っているということは、生命と生活に躍動がないという証であり、その一念にハリがないという姿は、そのまま生命のリズムが快調でないことを示しています。勤行の姿勢に、不思議と生活の実相が顕われているものです。ごまかしのきかない世界が仏法の世界なのです。
歓喜と感謝と感動のない信心には、向上と成長の種子は育ちません。初信のみずみずさを思い返すべきでしょう。
また所詮、戦っていないから、勤行の声の響きに明るい真剣なリズムが生まれないのではないでしょうか。御本尊が好きで好きでたまらないという人は幸せな人です。ひたぶるな信・行・学がない人は、必ずしまったと悔いるときがくるでありましょう。
大聖人の仏法を修行しているようでも。心の底が誤った思想に毒されてはいないか、名声や利欲に走っていないかどうか等々、たえず自己の信心を見直す人はグングン伸びる人です。
私たち一人ひとりの生命にはらまれている大小さまざまな悪しき宿業、悪罪は、今世のうちに絶対に責め出し、除去すべきものです。これを来世にもちこし、ますます重態にしては、それこそ大変です。
しかも正法の敵を責めなかった大罪の果報を思うと、いま、三障四魔と戦うことがどんなに価値的な行為であることか。なぜならば、障魔とは、しょせん、自身の宿業を消さんがためにあらわれる破風にほかならないからです。