法悟空 内田健一郎 画 (5979)
山本伸一をはじめ、弟子たちの道理を尽くした真摯な説得の結果、宗会議員の多くは考えを改め、戸田城聖を処分するという決議の撤回に同意した。また、法主の水谷日昇は、この宗会決議を採用しなかったのである。
笠原事件を乗り越えた学会の、師弟の魂の結合は一段と強くなっていった。逆風に翼を広げ、会員七十五万世帯の達成へ、雄々しく飛翔していったのである。
伸一は今、学会の首脳たちに、広宣流布に断固と生きる師弟の気概が、燃え盛る創価の闘魂が、感じられないことを憂慮していた。
四月六日、彼は、宗門の虫払い大法会に出席するため、総本山大石寺に赴き、日達法主と面会した。そこで、法華講総講頭の辞任とともに、創価学会の会長も辞任する意向であることを伝えたのである。
伸一にとっては、悪僧らの攻撃から、学会員を守ることこそが最重要であった。
彼には、“自分は会長を退いても、若き世代が創価の広宣流布の松明を受け継ぎ、さっそうと二十一世紀の大舞台に躍り出てくれるにちがいない”との、大きな確信があった。
後継の人あれば、心配も悔いもない。「私には青年がいる!」と胸を張れる指導者は幸せである。未来は希望に満ちているからだ。
四月七日の午後、伸一は、創価大学を訪れた中華全国青年連合会(略称・全青連)の一行二十人を、「文学の池」のほとりにある、美しく花開いた「周桜」の前で迎えた。
一行は、この日、午前十時に、信濃町の聖教新聞社を訪問し、青年部代表の熱烈歓迎を受け、万代の友好交流をめざして意見交換した。そして、伸一の待つ創価大学にやって来たのである。
伸一には、“今こそ、平和の哲学をもって世界を結ばねばならない”との強い思いがあった。だから、何があっても、いかなる嵐の渦中にあっても、世界に平和の橋を架ける作業に全力を注ぎ続けた。