信心は観念ではない。体得である。 体得には、御書のとおりの実践が必要となる。 ゆえに御書に説かれているさまざまな御聖訓を、そのまま信心のうえで色読できるようにならなければ、深い信心とはいえないのである。

信心は観念ではない。体得である。
体得には、御書のとおりの実践が必要となる。
ゆえに御書に説かれているさまざまな御聖訓を、そのまま信心のうえで色読できるようにならなければ、深い信心とはいえないのである。
つまり、広布への実践のなかで私どもは「異体同心」ということも知り、感じとることができる。
また、「同体異心」とは、「獅子中の虫」とは、「提婆達多」とは、「三障四魔」とは、ということも、現実の上で鋭く見極め、実感できるようになつていかなければならない。
観念はどこまで行っても観念である。現実に「三類の強敵」の嵐があったときに、自分は自分、御書は御書として、遠くにみることは、もはや真の信心ではなく、観念であったことになる。
すなわち、「賢者はよろこび愚者は退く」(御書一〇九一㌻)である。
皆さまは、一つひとつの法門をみずからが鋭く体得しゅく人であっていただきたい。
そこにのみ大聖人のおほめがあるからである。

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