戸田先生ご指導

題目を唱えるということが、どうして大事なのか、なぜ功徳があるのか、これは凡夫の理解力をもってしては解しがたい問題である。

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題目を唱えるということが、どうして大事なのか、なぜ功徳があるのか、これは凡夫の理解力をもってしては解しがたい問題である。
たとえば、ある一つの哲理を理解し、それを生活に応用する。そこに効果があらわれることは、当然の道理として理解できる。
だが、文章としてではなく、一つの言葉を口に唱えるだけで、事実の生活に効果が出てくるというのは、容易に理解できることではない。
南無妙法蓮華経を唱えるということは、法華経の法理のエッセンスでもある。法華経のエッセンスとは、とりもなおさず、八万法蔵といわれる仏法全体のエッセンスにほかならない。
この南無妙法蓮華経は、即、八万法蔵であり、宇宙の万法であり、大宇宙のリズムである。われわれが御本尊を信じて、南無妙法蓮華経を唱え、実践していくとき、わが生命のリズムもまた、南無妙法蓮華経のリズムとなって、無上の功力が顕現し、即身成仏するのである。
十界において論ずれば、われらの一念は、地獄界より仏界までの十界を具している。信心がなければ、仏界の顕現はなく、むしろ、地獄、餓鬼、畜生の三悪道、それに修羅を加えた四悪趣の生命の働きのみ盛んに起こり、それに支配され、引きずられた当体となっていく。
しかして、信心により、仏界の顕現があるとき、これらの地獄界等は、決してなくなるのではなく、いままで不幸へと働いていたのが、かえって幸福へと働くようになる。奥底の一念が汚れ、力弱かったために、それらの働きに引きずられていたのが、今度は強き一念によって、それらを逆に引きずり、用いていくのである。
これらの境涯も、さらに一歩立ち入って、仏法の眼で見ていくならば、所詮、心の奥底の一念が、一切を決定していくという厳然たる事実を、われわれは知らなければならない。どんなに表面をつくろうと、偽善を装うと、心の奥底、一念のあらわれはどうすることもできないし、その厳しい事実の姿こそ、まさしく諸法実相であえう。
新羅三千の諸法もことごとく一念に具足しているのが、生命の実相であり、厳しき宇宙の根本法則である。
したがって、せんじつめていくならば、瞬間瞬間をどう生きていくかが最も重要な問題となってくる。
ひとたび信心を失ったならば、理由がどうであれ、姿、形がどうであれ、その人の生命の奥底は地獄であり、必ず不幸の人生を送らねばならないのである。