池田先生ご指導

いかに観念的に、仏法を理解しようとしても、仏法の神髄が、決して会得できるものではない。題目を唱え、逆境を切り開き、力強い人生を歩むとき、生活、生命の上に厳然と功徳が湧き、証得できるのである。

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例えば、真っ暗な建物や部屋のなかでは、どこに何があるのか分からず、手探りでウロウロするばかりでしょう。机にぶつかったり、思うように歩くこともできませんね。それと同じように、無明に覆われた生命は、自身の生命をよく知らないために、煩悩を制御する手だても知らず、煩悩に振り回されてしまうばかりで、結果として不幸な人生を歩むことになるのです。


戸田先生は、婦人部に対して言われた。「真剣に、御本尊に願い切りなさい。この簡単な原理が、皆、分からない。これが一番、遠いようで、確実な早道になっていくからである」 (人生の浮き沈みなどに)いちいち紛動される必要はない。根本は信心である。前に向かって、未来に向かって、勝利に向かって、南無妙法蓮華経と唱える自身の胸中に、すべての勝利は入っているのである。


いかに観念的に、仏法を理解しようとしても、仏法の神髄が、決して会得できるものではない。題目を唱え、逆境を切り開き、力強い人生を歩むとき、生活、生命の上に厳然と功徳が湧き、証得できるのである。そこに大御本尊の威力、大聖人の仏法の偉大さを、しみじみと自覚できるものである。遠く、釈迦時代に「智慧第一」といわれた舎利 すら「以信得入」といって、信をも

って成仏した。信心、実践なき者に、仏法がわかろうはずがないのである。


大詰めまで来ながら“最後の一手”をおろそかにして、積み重ねた労苦を無にする愚を戒めている。 御書は「譬えば鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日余り歩をはこびて今一日に成りて歩をさしをきては何として都の月をば詠め候べき」と“いよいよの信心”を教えておられる。