また、十界互具の原理によっても、このことは明らかであります。瞬間瞬間、生命は変わっていく。停滞することをしらない。仏界という生命も、御本尊を受持し、唱題している状態から離れれば、すぐに冥伏して消えてしまうのであります。永年、信心強盛で大幹部になったとしても、この御本尊から離れ、題目をとだえさせてしまうならば、電流のスイッチを切るのと同じように、仏界は冥伏してしまう。もうなんの力もなくなってしまう。だが、これを生涯実践しぬくことによって、自己の生命の基調を仏界としていくことができる。千里の道も一歩よりで、刹那成道、即身成仏の瞬間瞬間の積み重ねによって、汝自身の生涯を貫く基調として仏界を確立しきっていくことが、一生成仏という原理になる、と私は思う。
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よく「主人が協力してくれるようになったんです」。「けれども、まだ拝まないのですよ」という人がいる。この「けれども」がついたのでは主人が信心に反対しなくなっただけでも、一歩前進なのに「感謝」の念がまったくないんですね。いくら感謝しても「けれども」をつけてしまうから、前の感謝が消えてしまう。皆が意外と陥りやすいのが、この「けれども」信心なのです。これがあるうちは、喜びにあふれた信心はできません。こんなに苦しい、こんなに一所懸命題目を唱えているというところで退転してはいけない。もう一歩、もう少しやればいいのだ。そうすると宿命の転換になってくる。
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いわんや信心の世界はもっと厳しい。謙虚な求道心を忘れ、自分を大した存在と思ったとたんに墜ちてしまう。幹部も地位を得た人も、皆そうである。
幹部でありながら障魔と戦っていくことを避け、周囲の評価を気にして、要領よく生きていこうとするのであれば、もはや信心とはいえない。
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学会もこれだけ組織が大きくなると、要領のよい、口のうまい、才智の人が役職につき、役職で信心の力があるかのような錯覚におりいる幹部が出てくる可能性がある。未来の広宣流布へのためにも、この一点だけは厳しく心にとどめていただきたい。
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幹部は、座談会や家庭指導、折伏等々、第一線に出て足を棒のようにして歩き、活動に励んでいかなければ、勝利は望めない。戦いに臨んでは、幹部の肩書きや、形式を一掃し、全員が裸一貫の人間性に立ち戻って、実力で勝負をしていくことが大事なのである。学会員一人ひとりが民衆一人ひとりと話し合い、信心をわからせ、誤りを正し、立派な学会員に育て、また学会のよき理解者としていくのだ。この地道な、力強い生き方を立派に成しきっていける人が、真実の地涌の菩薩んであり、真実の学会幹部であるといいたい。
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広宣流布の信心に立てば、他者の幸福のために尽くすことも、結局は全て自身の幸福を開いていくことに直結する。「人のために火をともせば・我がまへあきらかなるがごとし」(同1598ページ)と仰せのごとく、他者への献身が、そのまま自らの喜びに変わる。仏道修行によって積んだ福徳が自身を飾り、“何があっても楽しい”という絶対的幸福境涯を築いていけるのである。
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この御本尊の功力を引き出すのは、御本尊を拝する私たち自身の信心です。大聖人は「能く能く信ぜさせ給うべし」と教えられています。
ゆえに、試練や逆境に直面した時こそ、自らを鍛える“最大のチャンス”と捉え、ますます信心を強盛にしていくことが肝要である。
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信心には“ここまでやればいい”という、いわばゴールはありません。地道に唱題を重ねていく“持続の信心”、また仏法を求め続けていく求道の姿勢こそ、一生成仏の肝要となるのです。
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