究極の祈りである「誓願の祈り」
「広宣流布のために」「師匠にお応えする」との大境涯で祈るには、相当の確信がなくては自分自身の深層心理が、それを信じてくれない。
頭では、広宣流布のためにと思っていても現実は、目の前にある悩みを受け止めるだけで精神的エネルギーを使い果たしていることがある。
「法華経の行者の祈りは叶う」とのご金言もある。これも、私のような未熟な学会員には荷が重いときがある。
それなりに役職を頂いていたとしても真実の姿は、朝寝坊をすることもある。
時間があったら、惰性でテレビを見てしまうこともある。
どうあがいても、心の奥底にいる自分だけは本当の自分の姿を知っている。
もし、弱気になって「法華経の行者の祈りは叶うけど自分はまだまだだから」なんて思った日には何も叶わない。