故初代会長が、半日学校制度論を唱えられた。 その意図は、日本人は所定の学校を卒業すると、その後は、学問をしないのが常態である。 国家の文化向上の意味からも、また、各個人の職業向上の点からも、是非とも、国民全体に一生涯の間、学問をさせたいというのが、その主眼であった。
この事は、また、国家にとって、非常に経済的な事でもある。 何故かならば、あらゆる学校を三部制にして、午前部、午後部、夜間部とする。 これは、校舎の節約になり、かつまた、国家全体の労働力を増す事になる。 されば、今の学生が、十年も、十五年も、ただ国家が養っている様な現状は、これによって打破できる故に、小学生も、中学生も、大学生も、半日だけ勉強して、その他の時間は、労働に、また自己の研究に、費やさせる様に指導するのである。 そしてその上に、大学の卒業後も、また大学へ行かなかった者も、専門の教育、または一般教育に、一生涯、勉強させようというのである。
しかし、これは理想論であって、今直ちに施行される事ではない。 その理由は、一般大衆が、それを要求してもいないし、また政治的にも、これに対する情熱と、指導力が無いからである。 さればとて、この精神が、人々の中に養成されないで良いという事はない。 否、絶対に必要な事である。 民衆が、自己の教養を外にして、一部分の文化人に引きずられて行くという事は、文化国家の姿ではない。
殊に、青年は、然りである。 読書と思索の無い青年には、向上が無い。 青年たる者は、絶えず向上し、品位と教養を高めて、より偉大な自己を確立しなければならぬ。 それが為には、吾人は、『読書と思索をせよ』と叫ぶものである。
吾人が、かく叫ぶ時は、青年はこう答えるであろう。 『暇が無い』と。 青年諸君よ、自己の生活を反省してごらん。 暇が無いのではなくて、心に暇が無いのではないか。 故に、忙しく時に追われているのではないか。 朝三十分の暇を作れぬ訳がない。 電車の中こそ最も良き読書の場所である。 また、ムダな事に時間を使っている場合も、あるであろう。 されば、一日を総計すれば、一時間や、二時間の読書の時間は、必ずある筈である。 また、二十分や三十分の思索の時間は、無いとは言えない。 但し、問題はその習慣をつけるか、つけないかという事になる。
また、その読書と思索も、単なる娯楽的・遊戯的なものであってはならぬ。 少しでも自己を向上させ、自己の職業に役立つものでなければならないと、吾人は主張する。 この、読書と思索の習慣が、日本の青年層に建設された時に、次の時代が、如何に力強いものになるかは、想像にも余りあるものである。
学会の青年諸君よ。 読書と思索の習慣を、日本国に植え付ける先達とならん事を、吾人は切望して、筆を置く。
戸田城聖全集より