sokaxx

スポンサーリンク
池田先生ご指導

日蓮大聖人の仏法では、宇宙の本源の「法」を「本尊」とする。それは自分自身の生命の根源「法」でもある。ちょっと難しいが、「墳智冥合」といって、拝む対象の「墳」と、拝む側の「一念」である「智」が奥深く合一していく。つまり、宇宙の究極の「法」と自分の「一念」が合体して、祈りとなる。

2
池田先生ご指導

だが、忘れていけないことは、その根底をなすものが、あくまでも信心であり、折伏というあるということです。 折伏精神こそ、一切の勝利の源泉であるという定義を確認していただきたい。

0
池田先生ご指導

そのうち、どれだけ自分は広宣流布のことを思ったか、御本尊のことを思ったか、学会のことを、同志のことを思ったか、行動したか、行動しなかったか。 その差し引き、プラスマイナスの総合点で、自分の境涯が決まってくる。

0
スポンサーリンク
池田先生ご指導

他の人の仏界涌現を手伝っていくのが仏道修行です。

0
池田先生ご指導

「もしも、お前が死ぬようなことになったら、私もすぐに駆けつけて、お前の上にうつぶして一緒に死ぬからな」

0
池田先生ご指導

広布の戦いでは「強い信心」こそ最高の「兵法」なのだよ。大きなカベにつき当たったり、いざ難題に取り組もうとする時、つい「策」や「方法」に走ってしまう。 まず「法華経の兵法」だ、と腹を決めること

0
池田先生ご指導

歓喜があれば功徳の大輪は、ますます大きくなる。しかし、こればかりはそれ、歓喜、歓喜などと言っているだけでは、歓喜はでてこない。

0
池田先生ご指導

いざ困難に出くわし、窮地に立たされると、”もう駄目だ” とあきらめてしまう。 しかし、実は、困難の度が深まれば深まるほど、もう少しで、それを乗り越えられるところまできているのです。

0
池田先生ご指導

教学こそ、危険千万な人生の荒海を渡るための羅針盤の大哲学なのである。 教学が強くなれば、信心はさらに強くなる。反対に強靱な“背骨”がなければ、いざという時に弱い。

0
戸田先生ご指導

南無妙法蓮華経といって、大宇宙生命の本体それ自体が、わが生命のなかへ働かなかったならば、ないも同じでしょう。それを働かせるために日蓮大聖人様は、南無妙法蓮華経という御本尊様を顕されたのです。

0
スポンサーリンク